江ノ島駅を出た江ノ電が腰越の町に入る直前、片瀬の竜口寺の門前脇にあるのは竜口明神社の旧社である。このあたりは竜ノ口と呼ばれている。この地名の由来は、片瀬から深沢にかけての山の姿が、ちょうど龍が伏せたような形をしていることから、江の島神社や竜口明神社の縁起によるところの江の島の弁財天と五頭龍の伝説が生まれ(竜口明神社参照)、江の島に向かって伏せる龍の口の部分にあたるため、竜ノ口と呼ばれるようになったものと考えられている(『新編鎌倉志』)。
社殿
竜ノ口は、中世は鎌倉の近郊に位置する処刑場であった。南北朝期に書かれた天台宗の百科全書である『渓嵐拾葉集』には、江の島の弁財天の縁起に続けて、「…五頭龍は盤石となり、江の島を守って南を向いて棲んでいる。これが今の龍口山の大明神である。この大明神の誓願によれば、暴虐の族は我が前で頸を切り、贄に掛けるべきである。…この誓願は世のあらん限り持ち続けるということである。そのようなわけで、鎌倉の謀叛・殺害人・夜討・強盗・山賊・海賊等は、この明神の御宝前で切られるのである」(黒田日出男『龍が棲む日本』P.151より)という話が見えており、文永8年(1272)に『立正安国論』を鎌倉幕府に提出した日蓮がここで処刑されそうになったり、また元寇の際に日本にやってきた元使の杜世中や中先代の乱を引き起こした北条時行がここで処刑された。
竜口明神社の創建は詳らかではないが、もともと五頭龍の伝説にちなみ、このあたりに子死方明神や白髭明神と呼ばれる社が建てられ、これが竜口明神社の発祥だという。竜ノ口は往古より、鎌倉の中と外の境界であったとみえているが、江戸時代には津・腰越両村の鎮守であり、その所属は未確定であったが、社地の位置自体は片瀬村の中あり、境内は津村の飛び地になっていた(『新編相模国風土記稿』)。現在でもこの社がある場所は藤沢市域の片瀬にある鎌倉市津の飛び地である。社殿は大正12年(1923)の関東大震災で半壊し、昭和8年(1933)に修復され、昭和53年(1978)に、氏子らによって西鎌倉に移された。このため、ここは旧社となった。