古都鎌倉の中心であるとともに宇佐、石清水とならび全国を代表する鶴岡八幡宮は、雪ノ下の大臣山(だいじんやま)の麓に鎮座している。祭神は応神天皇(おうじんてんのう)・比売神(ひめがみ)・神功皇后(じんぐうこうごう)。例祭は九月十四日〜十七日まで。もと国幣中社。源氏の氏神であると同時に鎌倉幕府祭祀の中心的な存在であった。八幡宮は全国で四万社以上存在するが、源氏の神・武神としての性格が強く、鶴岡の建立以後、鎌倉御家人たちによって各地に八幡宮が勧請されたことが大きい。なお、鶴岡は明治三年(1870)の神仏分離までは「鶴岡八幡宮寺(つるがおかはちまんぐうじ)」と称し、寺院であった。
鶴岡八幡宮
鶴岡のもとは宇佐(大分県宇佐市)の宇佐八幡宮(現在は宇佐神宮)である。八幡宮はもともと宇佐にある大元山(御許山、おもとやま)の磐座の信仰をはじめ、宇佐の在地信仰に渡来人や外来仏教などが習合して形成されたものを起源とする(宮地直一『八幡宮の研究』)。八幡神の特徴としては、託宣の神ということである。天平十七年(745)、八幡神は東大寺の大仏造立を支援すると託宣し、大仏の完成とともに上京、そのまま東大寺の鎮守となった(手向山八幡宮、たむけやまはちまんぐう)。また貞観元年(759)には男山に勧請され、これが石清水八幡宮となった。この間に仏教との習合が深まり、王城鎮護、伊勢に次ぐ宗廟となった。八幡神はその後も国家的大事に関わることが多く、神護景雲三年(769)には道鏡の宇佐八幡神託事件が起こり、室町幕府の六代将軍足利義教は石清水の社前での籤引きによって選ばれた。
しかし、八幡神の性格としてやはり重要なのは武神としての性格であろう。「弓矢八幡」という言葉がある通り、源頼信以降、清和源氏は八幡神を氏神とし、東国や東北にその信仰が広がった。
上宮楼門
鶴岡は康平六年(一〇六三)八月、源頼義が奥州の安倍貞任の征伐を成し遂げたことから、ひそかに石清水の分霊を相模国由比郷鶴岡に勧請したことに始まるという(『吾妻鏡』治承四年十月十二日条)。この相模国由比郷の八幡社は今の由比若宮、元八幡社である。相模の鎌倉はもともと源氏とゆかりがあった土地とみられる。源頼信と頼義の親子が長元元〜四年(1028〜1031)の平忠常の反乱を鎮定した後、平直方は、頼信の子、頼義が武芸に優れているのをみて娘をめあわせ、この娘と頼義の義家らが生れている。直方は鎌倉の屋敷を頼義に譲り、以来、鎌倉は源家相伝の地となったという(『詞林采葉抄』)。鶴岡の建立にもこのことがうかがえる。その後、永保元年(1081)二月に頼義の子、義家が修理を加えている。
治承四年(1180)、房総で再起した頼朝は十月六日には再度鎌倉に入るが、翌日には先ず鶴岡を遥拝している。そして十二日に現在地の小林郷北山に鶴岡を移した。鶴岡での最初の幕府祭祀は同年富士川の合戦に向かう頼朝が戦勝祈願のため供僧などに法華経・仁王経・最勝王経などの勤行を命じたものであるが、この時からすでに鶴岡には仏教的要素が存在していたことがわかる。鶴岡の神仏習合はこの時から始まっていたのである。富士川の合戦で平家に勝ち、関東経営に専念することになった頼朝は同時に鶴岡の整備にも本腰を入れるようになった。寿永元年(1182)三月、鶴岡への参詣道として段葛を造り、四月には社前の田んぼの耕作を止めて、池を造営している。この池が現在の源平池である。文治三年(1187)八月には放生会(ほうじょうえ)と流鏑馬(やぶさめ)が催されるなど神事も行われるようになった。
舞殿
文治元年(1185)の三月四日には平家は壇ノ浦の戦いに敗れ、滅亡した。源平合戦が終わると、続いて頼朝と弟義経の対立が起こるようになる。寿永二年(1183)に兄の源範頼とともに頼朝の代官として京都へ出発、その後、木曽義仲の討伐や一ノ谷、屋島、壇ノ浦などで多くの戦功をあげたが、頼朝に憎まれて、同年十月には頼朝に反旗を翻していた。当初、京を落ち延びて九州へ向かおうとした義経ではあったが、暴風雨で船が難破して果たせず、味方と散り散りになり各地を落ち延びていった。この時、義経の愛妾、静御前は義経に同行していたが、吉野でとうとう別れ、その後、文治二年(1186)、京都で山僧に捕えられ北条時政に引き渡されたあと、鎌倉に送られ、頼朝夫妻の求めに応じて鶴岡で舞を舞った。このことは『吾妻鏡』に次のように記されている。
頼朝と政子は鶴岡に参詣した。次いで静御前を回廊に召し出した。これは舞をさせることのためであった。このことはかねてより仰せがあったのだが、静御前は病気を理由に参じなかった。わが身のいたらなさについては、あれこれ言うことはできないが、義経の妻として、目立つ場所に出てることは、大変な恥辱なことであるので、日頃からこれを渋っていたが、すでに静は天下の舞の名人でたまたまこの地に来て、近く帰洛するのに、その芸を見れないのは無念であると政子がしきりに言って頼朝に進めるので、頼朝は静に「八幡大菩薩の加護や利益に備えるためである」という旨を仰せられた。義経と別れた憂いがあって、さらに舞をする気にはなれないということで、その場になってもなお固辞したのだが、頼朝の命令が再三に渡ったので、やむなく白雪の袖をめぐらして、黄竹の歌った。
工藤祐経が鼓を打った。これは数代に渡る勇士の家に生まれ、武芸を受け継いでいながら、武者所の筆頭職に長くいたことがあり、自ずから歌吹の曲の心得があったので、この役を務めたのであった。畠山重忠が銅拍子を務めた。
静は歌いだして言う。
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
また、別の歌を唄った後、また和歌を吟じて言う。
しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
まことにこれは鶴岡の社壇が壮観なものとなり、素晴らしい歌であった。身分の高い人も低い人もみな感慨に浸っていると、頼朝が仰った。
「八幡宮の神前での芸という時は、当然関東の万歳を祝うべきなのに、聞いていることを憚らず、反逆した義経を慕って、別の歌を唄うとは奇怪なことだ」
政子はこれを聞いて言う。
「あなたが流人として伊豆にいらっしゃったころ、私はあなたと契りをかわしましたが、(父の)北条(時政)殿は時の権力を恐れ、ひそかに私を閉じ込めてしまいました。しかし、なお、あなたをお慕いし、暗夜に迷い、大雨を凌ぎながら、あなたのところに辿り着きました。また、あなたが石橋山の戦場においでになった時は、私は一人で伊豆山にとどまり、あなたの生死もわからず、気力を失っていました。その憂いはいまの静と同じなのです。義経との長年のよしみを忘れ、恋い慕うことがなければ、貞女の姿ではありません。形に外の風情を寄せて、動きに真心を許すのが、まことに幽玄というべきものでしょう。(お怒りを鎮め)お誉めになってください」
(この政子の言葉で)頼朝は怒りを解き、しばらくして、卯花重の御衣を御簾の外に押し出して、褒美として与えられたということであった。
この有名な静御前の舞の話は文治二年四月八日のことであった。静はこの時、懐妊していたので、しばらく鎌倉に留め置かれた。頼朝は静の子が、女の子ならそのまま静に育てさせようとしていたが、生まれたのは男の子であったので、由比ガ浜にすまきにして殺させてしまった。
さて、静御前の舞の後、頼朝は文治五年(1189)に奥州の藤原氏を討伐し、いよいよ関東は彼の掌中に入ることとなった。しかし、建久二年(1191)三月四日未明、鎌倉で大火災が起こり、御家人屋敷や幕府が次々と炎上した。鶴岡もこの時類焼してしまったが、頼朝はこのことに非常に大きなショックを受け、鶴岡の焼け跡に残った礎石を眺めて号泣したという(『吾妻鏡』建久二年三月六日条)。しかし、頼朝はすぐに再建に取りかかる。八日には新たに仮宝殿の造営を開始し、今度は火災による被害を防ぐため、背後の山腹に社を築くことにした。これが現在の上宮(じょうぐう、うえのみや)である。
上宮(左)と若宮
こうして十一月には再度、石清水から御神体が勧請された。なお、もと八幡宮のあった場所は下宮(げぐう、しものみや)または若宮と呼ばれるようになる。鶴岡の再建が成った翌建久三年(1192)七月には頼朝は征夷大将軍に補されているが、この辞令の拝授は鶴岡で行われた。これらの例に代表されるように鶴岡は創建以来、幕府の公式行事あるいは祈祷などが行われる場所となり、まさに幕府の精神的支柱たる存在となっていくのである。例えば以降の将軍たちも正月は鶴岡に社参したし、また実朝右大臣拝賀も鶴岡で行われた。また、その他の儀式も次第に形を整え、放生会や流鏑馬、あるいは様々な仏事・祈祷、臨時祭、神楽、競馬、相撲などが鶴岡で行われるようになった。鶴岡は特に密教の寺院としての要素も持っていたということは重要で、建久五年(1194)には両界壇所が設けられている。
鶴岡のこうした祭祀を行ったのは密教系の僧侶たちであったが、彼らは神社に使える供奉僧、つまり供僧と呼ばれ、二十五名の供僧が奉事していた。供僧は当初は平家合戦で敗れた平家出身者たちが出家し、仕えた例が少なくない。敗者に対する一種の配慮であると同時に鶴岡の供僧であることで監督もしやすいという理由があったのであろうとされている(貫達人『鶴岡八幡宮寺』)。供僧の長を別当というが、最初の別当は園城寺の円暁である。供僧たちにはそれぞれ専門の経典があった。彼らの住坊は鶴岡の北方、御谷(おやつ)にあり、それぞれ坊名があった。これらは継承され、二十五坊と呼ばれるようになった。承元二年(1208)には神宮寺が創建された。
上宮と石段、かつては左側に大銀杏があった。
頼朝の死後、幕府政治は混乱の時代となる。これはそれまでは頼朝という強力な指導者が、京下りの官僚たちの補助のもとその政権を運営していたが、頼朝の死によって政権運営が御家人たちの手に委ねられてしまったためである。このため鎌倉では御家人同士の権力争いが起き、正治二年(1200)に梶原景時、建仁三年(1203)に比企能員がそれぞれ討伐されている。比企氏の乱に連座する形で頼朝の跡を継いだ将軍頼家も伊豆に追放され、のちに殺害された。実朝の時代になっても畠山重忠が元久二年(1205)に討たれ、同年に北条時政が失脚した。和田義盛は建保元年(1213)に北条義時と戦って討たれた。和田義盛の乱では北条氏の軍勢は陣を八幡宮の赤橋前に置き、ここが戦場になった。幕府内の内部闘争は結局、承久元年(1219)に将軍実朝の暗殺という形に帰結する。同年一月二十七日、実朝は右大臣拝賀式において兄頼家の子で、鶴岡別当の公暁に殺害された。
後世編纂史料である『吾妻鏡』は必ず凶事の前に予言めいた記事を書く。これは一種の北条氏史観の正当化なのであろうか。この時も前日に鳩が殺される夢を見る者がいたり、大江広元が理由もわからず涙するなど不吉な予兆を記している。なかでも印象的なのは実朝の次の歌である。
出でいなば 主なき宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春をわするな
ところで一般に実朝殺害の場所は鶴岡の上宮へ登る石段で、さらに後世になると公暁が石段脇の大銀杏に潜んでいたという伝説が付加されるが、実朝暗殺の場所は史書によってまちまちで定かではない。実朝の死は源氏将軍は絶えさせ、幕府の内部対立と混乱から承久の乱が勃発することとなる。
二の鳥居
実朝の死とそれに続く承久の乱(承久三年、1221)は幕府にとっては危機である一方で、幕府が全国政権となるターニングポイントでもあった。承久の乱は結局、幕府軍が後鳥羽上皇の軍を圧倒し、北条義時の政治権力は絶大なものとなった。乱後、幕府は摂関の地位や皇位にも介入し、後鳥羽上皇の味方をした者たちの所領は没収され、そこに鎌倉幕府の御家人たちが地頭として送り込まれた。彼らを新補地頭(しんぽじとう)と呼ぶ。こうして関東の政権であった鎌倉幕府は西国にもその範囲を広げたのであった。ところが朝廷を圧倒しておきながら、中世の人たちにとって敗者の怨霊というのはかなりナイーブな問題として存在していたようである。宝治元年(1247)四月、承久の乱で敗れた後鳥羽・土御門・順徳上皇と後鳥羽の護持僧長賢の怨霊をなぐさめるため、鶴岡の北西に新宮(いまみや、→今宮)が建てられた。すでに承久の乱から二十六年後という歳月が経っているにも関わらず、いまだにこうしたことが行われていることは中世人がいかに怨霊を意識したかがわかり、興味深い。
しかし、宝治元年という年は当時の執権北条時頼にとっては、後鳥羽上皇どころではなかった。この頃、相模の大豪族三浦氏との緊張が続き、六月にはついに両者は鎌倉市街で激突したのであった。これを宝治合戦と呼ぶ。宝治合戦で鶴岡は三浦氏の軍勢が陣を張って戦闘に及んだので流鏑馬舎が焼失してしまった。
宝治合戦は北条氏の勝利に終わり、いよいよ執権政治は確立するところとなった。北条氏率いる幕府の庇護のもと鶴岡の権威も次第に拡大していく。社領の荘園の集積も進み、相模国を中心に武蔵、駿河、上野、下野、甲斐、上総、下総、遠江、常陸、伊勢、近江、周防、伊予、陸奥など各国に社領が存在していた。
一の鳥居。由比ガ浜のほど近くに存在する。
元弘三年(1333)に新田義貞が鎌倉に攻め寄せ、鎌倉幕府が滅亡すると鶴岡はその有力な庇護者を失うこととなった。しかし、源氏の氏神としての八幡神とすでに確立していた鶴岡自体の権威というものから、鶴岡の庇護者は足利氏に代わることとなる。足利尊氏は建武二年(1335)に中先代の乱が起きると、北条時行の軍勢を破って鎌倉に入ったが、以後鶴岡に所領を寄進するなど、関係を深めた。尊氏が京都に戻って以降は代々の鎌倉公方が鶴岡を崇拝し、造営等を行った。関東の祈祷所としての鶴岡の機能は相変わらず続いていたようで、ミニ幕府とも言うべき鎌倉公方は、鎌倉幕府と鶴岡の関係を継承していたとも言える。この中で有名なのが足利持氏である。将軍位を狙っていたとも言われる持氏は、永享六年(1434)三月十八日、将軍義教の打倒を祈願して「血書願文」というものを奉納している。これは今『神奈川県史』などでそのカラー写真を見ることができるが、願文の字が赤い字で書いてあるので、持氏が自らの血で書いたと言われ、そのように呼ばれているのである。本当に血で書いたのかどうかはわからない。あるいは朱で書いただけかもしれない。そんな持氏も永享十一年(1439)二月十日、永享の乱で敗れ鎌倉永安寺で自害した。そして、持氏の子である成氏が康正元年(1455)に古河へ移座すると、鶴岡も徐々に衰微していったようである。
上宮
大永六年(1526)十二月十五日、安房の里見実尭(さとみさねたか)が鎌倉に上陸した。小田原城主の北条氏綱配下の玉縄城の兵らが実尭と戦い(→玉縄首塚)、実尭は引き上げたのだが、この戦闘で鶴岡は焼失してしまった。この修理造営を行ったのは氏綱であった。氏綱の修理造営は天文元年(1532)より始まり同九年まで行われたが、その様子は鶴岡の供僧、相承院の快元の日記『快元僧都記』に詳しい。この後、鶴岡の造営は歴代の小田原城主に託されたのだが、その小田原城は天正十八年(1590)に豊臣秀吉によって落城した。秀吉は小田原攻めの後、鎌倉に立ち寄り、鶴岡の修造に意欲を示した。そうして白旗神社の頼朝像を見ると、その像の肩に手をかけてこう話したという。「低い身分から身を立てて天下を取ったのは、あなたとわたしだけである。あなたがりっぱな血筋とたくさんの味方にささえられていたのに対して、わたしは全く自分だけの力で天下を取ったが、あなたとは天下の友だちである」(『鎌倉子ども風土記』上巻、九十頁)。秀吉と頼朝ではだいぶ共通点が少ないが、あくまで言い伝えである。秀吉は家康に鶴岡の修理を命じ、翌年の天正十九年(1591)には「修営目論見絵図」が作成された。この天正の修理の計画図は『鎌倉市史』の社寺編に収められている。だが、この時の修理は文禄の役などの影響もあり、下宮の工事のみに終わった。上宮も含めた全体の修理が終わったのは、寛永元年(1624)のことで、家康・秀忠と二代にわたる造営であった。江戸時代には何度か火災にあっているが、ことに文政四年(1821)の大火は深刻で、堂宇や別当坊がことごとく焼失してしまった。この火災の復興は幕府の主導のもと行われたが、幕府の財政難のため規模は縮小した模様である。
白旗神社。頼朝と実朝を祀る。
明治維新を迎えた結果、維新政府は神仏分離令を発した。これにより神仏混淆の形態をとっていた鶴岡も分離を実施しなければならなくなった。神奈川県庁からのたびたびの勧告により鶴岡も明治3年(1870)には境内にある仏教関係の施設、仏像、経典等を取り除き、供僧は還俗して神主になった。堂は取り壊され、材木などとして売り払われた。仏像や経典は他に移された場合もあるが、焼却されて廃棄されてしまった例も少なくない。現在市内では扇ガ谷の寿福寺にある仁王像、手広青蓮寺の弘法大師像(鎖大師)が鶴岡の旧蔵仏である。他に世田谷区の五島美術館の愛染明王像、県内横須賀市東漸寺の地蔵菩薩像、東京都の新開院の薬師三尊および十二神将像などが鶴岡の流失仏である。鶴岡はこうして急速に神社化していった。明治六年(1873)には境内で陸軍の演習が行われ、明治天皇が裏山の大臣山からこれを観閲した。一般の人は入ることができないが、大臣山の頂上にはこの記念碑がたっていたように私は記憶している。
丸山稲荷。鶴岡の創建前よりあった鶴岡の地主神である。
現在の社観は関東大震災後のものである。境内地には上宮、下宮(若宮)、舞殿、直会殿(なおらいでん)、社務所、手水舎、祖霊社、丸山稲荷、白旗神社の他、鎌倉国宝館、神奈川県立近代美術館、武道館、鶴岡幼稚園等がある。境内ほど近くには二十五坊の旧跡、今宮、また鶴岡から若宮大路に伸びる参道には段葛がある。