源氏山の山上、葛原岡にあるのは葛原岡神社である。この岡の名の由来は『鎌倉攬勝考』によれば梶原景時の祖先の権守景成が桓武平氏の祖先にあたる葛原親王(かずらはらしんのう)を祀った社をこの丘に建てたのが、いつしか「葛原」になったというが詳細は不明。
この丘では元弘の乱に至る過程で公卿の日野俊基が斬首されたことが『太平記』に見えている。日野俊基は後醍醐天皇の側近の公卿で鎌倉末期の正中元年(1324)に後醍醐天皇が倒幕の密議を謀り、露見した事件(正中の変)で幕府に捕らえられ、兄の資朝とともに鎌倉に送られたが、この時は赦免された。しかし、元弘元年(1331)に再び後醍醐天皇の倒幕計画が露見した際は許されず、鎌倉に送られ、葛原岡で斬首の刑に処された。
葛原岡神社
明治期になり南朝正統論が主流となると、日野俊基を忠臣として顕彰する動きが出てきた。この結果として明治20年(1887)頃に日野俊基を祭神とする葛原岡神社の建立に至った。
近くには日野俊基の墓とする宝篋印塔があり、国の史跡だが、もともと日野俊基の墓として建立されたものではなく、明治期に他所から持ち込まれたものである。