長谷坂ノ下にある鎌倉権五郎神社は、広く一般には御霊神社と呼ばれる。祭神は鎌倉権五郎景正。景正(景政とも)は平安時代の武将で鎌倉氏の祖である。十六歳の時、奥州清原氏の内紛である後三年の役に従軍し、鳥海ノ柵で鳥海弥三郎に左眼を射られるも、ひるまず矢が刺さったまま鳥海弥三郎を倒し帰陣した。その時、味方の三浦為継が顔に足をのせて矢を抜こうとするのを大いに怒り殺そうとし、為継にひざまずいて抜かせたという豪傑の武士であったという伝説がある。こうしたことから柳田国男(やなぎたくにお、1875〜1962、官僚・民俗学者)が集めた日本の伝説の中で目の神様として鎌倉権五郎が出てくる。片目であったということから、柳田の民俗学の中では一つ目小僧と同じように、特別な扱いを受け信仰されていた面があると考えられている。また、江戸時代の解釈の眼病の神様であるということも、景正が片目であったということに関係しているのであろうか。
坂ノ下の御霊神社
御霊信仰というのはもともと奈良時代に菅原道真の天神を例にするように、無実の罪などで非業の死を遂げた人の怨霊が祟りをおこすと考えられたものであった。御霊信仰においては京都の上・下の御霊神社が有名であるが、各地にも御霊神社がある。各地の御霊神社は、御霊信仰に基づいたものもある一方で単に土地の祖先を祭ったものもある。この社でも最初は土地の祖先を祀ったものであったが特に景正が勇猛な武士として有名なのであったので、景正のみを祀るようになったという。三浦半島や藤沢など鎌倉周辺の御霊神社は景正を祭神とするものが多い。
境内社として、石上神社、地神社、祖霊社、金毘羅社、秋葉社があるが、特に石上神社は、土地の人は「石上さま」と呼んでいる。昔、この社の前浜である海の沖に岩礁があって、船が乗り上げて遭難する人が多かったので、土地の人たちが引き上げてここに安置し祀ったものだという。七月二十日の海の日には、この赤飯を持って海を泳ぎ、海神に供えるという御供流しが毎年行われている。また、九月十八日の例祭に行われる面掛行列(「はらみっと」とも)は、面をかけて妊婦のような格好をした人を中心に、面をかけた人々が練り歩く祭りで、県指定の無形文化財である。この祭りは一説に、頼朝がみごもらせた女性の姿であるという。「みごもらせた女性」というのはもちろん正妻の政子ではなく、浮気した愛人であろうか。