八幡宮裏手の駐車場から鶴岡文庫前の小道を左に曲がって、細い道を進むと今宮神社がある。八幡宮の境外末社で、今宮は新宮とも書き、後鳥羽、土御門、順徳の各上皇を祀る。これは承久の乱の結果、配流にされ、配地で亡くなった上皇達である。宝治元年(1247)、幕府は国中に広がる飢饉や疫病を上皇達のたたりであるとして、その怨霊を静めるためにこの神社を建てたという。後鳥羽上皇の祟りの話は『平戸記』などにもよく出てくるが、長く幕府の暗い影となっていた。承久の乱から二十数年経た宝治元年に至っても、いまだに上皇の祟りの話があるということは中世の怨霊を考える意味でも興味深い。
今宮
承久の乱は、実朝横死やその後の北条氏の権力争いによって、鎌倉が混乱に陥っていることから後鳥羽上皇が承久三年(1221)に北条義時追討の院宣を出して挙兵した事件である。しかし、上皇の考えに反して、鎌倉の北条義時らはこの院宣によってかえって団結し、北条泰時・時房らを大将軍に幕府軍を上洛させ、京都を制圧した。この結果、後鳥羽上皇は隠岐、土御門上皇は土佐、順徳上皇は佐渡に流され、その地で亡くなった(厳密に言えば土御門上皇だけは自ら希望して土佐に下向した)。乱後、上皇に味方した武士や公家などは処刑されたり、配流され、上皇に味方した者たちから没収した地には、新補地頭と呼ばれる地頭たちが補され、鎌倉幕府の権力は全国に広がった。また、京都には六波羅探題が設置されるなど朝廷に対して武家の権力が優位に確立した重要な事件であった。
静寂に包まれた境内の社殿後ろには、昔六本杉があり、天狗が住んでいたとか、光り物を見たという怪談が伝えられていたが、今はもうない。