植木の円光寺から北東方向に向かい住宅街の中に入ると、玉縄城址の石碑が立っている。石碑には「玉縄城は永正9年(1512)10月、北条早雲によって築かれた。大永(1521〜1528)、享保(ママ、正しくは享禄(1528〜1532)か)の頃は北条氏時がここにおり、天文初年より一族の北条綱成が居城とした。天正18年(1590)小田原北条氏が滅亡の際、城主の氏勝は降伏した後、城は徳川氏のものとなり、ほどなく廃城となった」といった意味の言葉が刻まれている。この石碑のある場所の北東、現在の清泉女学院の敷地一帯の丘には玉縄城があった。
玉縄城址の碑がある場所
玉縄城は戦国期に相模・武蔵を中心に南関東一帯を支配した小田原北条氏の支城で、もともとは北条早雲の時代に相模で対峙していた三浦道寸の住吉城(現逗子市小坪)に対抗するために築かれた城であった。三浦氏が滅亡すると、鎌倉防衛の砦としての性格を持つようになり、城主は早雲の三男氏時がなった。しかし、氏時は早世したため、早雲の嫡男氏綱の子、為昌が二代目の城主となった。しかし、為昌も早世したため、天文11年(1542)、城には北条綱成(北条氏綱の女婿、福島正成嫡男)が3代目の城主として入った。綱成は背中に「八幡大菩薩」と書いた黄色の旗を差して、いつも戦では先陣に立って勇猛果敢に戦ったので「黄八幡(地黄八幡)」と呼ばれた猛将であった。その後は子の氏繁が4代目の城主となった。
名将の存在もさることながら玉縄城の守り自体も非常に堅固で、幾度となる戦いでも落ちることはなかった。例えば永正13年(1516)7月、江戸城の扇谷朝興が城を攻めたが、あえなく敗退。大永6年(1526)12月、安房の里見実堯が海を渡り、鎌倉に上陸、鶴岡八幡宮を焼き払って玉縄城に押し寄せた際、その時の城主の氏時は近隣の大船村甘糟、渡内村の福原の郷士たちを率いて出撃し、戸部川で戦い、追い払った(→玉縄首塚)。永禄四年(1561)3月、越後の上杉謙信が鎌倉を占領し、鶴岡八幡宮で関東管領拝賀を行った後、玉縄城に攻撃を仕掛けてきた際も、永禄十二年(1569)に武田信玄の小田原攻めが行われた際も、城主氏繁率いる玉縄城は籠城に成功している。
氏繁の後、その子の氏勝は天正17年(1589)、豊臣秀吉の小田原攻めに備え、伊豆の山中城の応援に向かったが、山中城は落城してしまった。氏勝は力を落として玉縄城に戻って籠城した。秀吉の命で玉縄城の攻略を命じられたのは徳川家康であった。家康は玉縄城を包囲したものの、戦を避けて説得工作を行い、とうとう天正18年(1590)4月に城は開城となり、氏勝は秀吉に降伏した。城は徳川氏のものとなり、以後、徳川家の家来に預けられたが、元和5年(1619)に一国一城令のため廃城となった。
戦後、城の跡地は清泉女学院となったため、地形も大きく変わってしまった。しかし、現在でも周辺には「相模陣」、「七曲坂」、「諏訪壇」等の城に関する地名が残っている。また、円光寺、竜宝寺や植木の諏訪神社などは玉縄城や玉縄北条氏に関わりのある寺社である。