深沢にあった旧JR大船工場の跡地で、現在は鎌倉市の運動公園の中に丘に、泣塔と呼ばれる石造塔がある。高さ203cmの美しい宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、国の重要美術品に指定されている。泣塔のある丘付近は、かつて陣出(じんで)と呼ばれ、元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めの際に、鎌倉幕府最後の執権・北条守時率いる軍勢と義貞軍が激戦を繰り広げた場所にあたる。
泣塔
泣塔もその戦死者の供養塔と言われてきたが、塔に刻まれた年号は文和5年(※北朝元号で1356)で、洲崎攻防戦から23年後である。また、塔に刻まれた銘文から見ると、戦死者の供養塔とは断言しにくい面もあるため、洲崎合戦の戦死者供養塔ではないとされている。泣塔の背後には、やぐらがあり、内部には五輪塔がある。このやぐらも洲崎合戦の戦死者の骨を集めて埋葬した場所と言われきた。
泣塔という塔の由来は、この塔のたつ土地を持った人は、常に不幸になるので、あるとき、手広青蓮寺に移したところ、元の地が恋しくて塔が夜な夜な泣いたという伝説からである。その後も塔を取り残そうとすると、必ず事故が起きるので、この地に残されてきた。かつては国鉄大船工場内に取り残されるようにしてあったが、現在は塔のある土地は鎌倉市の敷地になっている。塔の保存状態は極めてよい。