鎌倉宮から瑞泉寺の方へ歩いていくと、永福寺の旧跡のあたりに、稲葉越橋という二階堂川にかかる川が架かっている。この橋を渡り住宅街の中を直進すると理智光寺蹟の碑がたっている。碑には「ここは願行上人を開山とする五峯山理智光寺の跡である。建武2年(1335)、淵辺伊賀守義博は足利直義の命を受け、護良親王を誅し奉ったが、その死相に恐れをなして親王の首を傍らの藪の中に捨て去ったのを、当時の理智光寺の住僧が拾い、この山上に埋葬し奉ったという」といった意味の言葉が刻まれている。
理智光寺蹟の碑
理智光寺の開山は願行房憲静で、貞栄元年(1232年)に後藤基綱が八幡宮で公暁によって暗殺された3代将軍源実朝を追善するため大蔵堂を建てたのが始まりだという。本尊は阿弥陀如来であったとされている。江戸時代まで記録があるが、その後に廃寺となり、現在はなにも残っていない。石碑にある護良親王の話は『太平記』に見えるもので、理智光寺蹟の碑の近くに大塔宮護良親王の墓の入り口がある。墓は現在、宮内庁の管理となっている。
護良親王の墓