腰越の満福寺境内には義経宿陣之蹟の碑がある。碑には「文治元年(1185)5月、源義経は朝敵である平氏を討ち、降伏した平宗盛を捕虜として、鎌倉に連れて凱旋しようとしたが、兄である頼朝の不審を蒙ったので、鎌倉に入ることを許されず、腰越に滞在し、その鬱憤のあまり、大江広元に書状を書いてとりなしを頼んだことが東鑑(吾妻鏡)に見えている。世に腰越状と言われる書状は、このことであり、その下書きと言われるものが満福寺に残っている」といった意味の言葉が刻まれている。
義経宿陣之蹟
源義経は義朝の第9子で、母は常盤御前である。義朝の第3子の頼朝は腹違いの兄にあたるが、母親の出自から義経の地位は当初からそれほど高いものではなく、牛若と名乗った幼少期は、平治の乱の結果、母とともに捕らえられ、7歳で鞍馬寺に入り、のち奥州の藤原秀衡を頼るなど、苦しい日々を送った。治承4年(1180)、頼朝が伊豆にて挙兵すると、これに呼応し、源義仲を討ち、一の谷、屋島、壇ノ浦と平家に対する戦いで武功を重ねた。しかし、これらの戦功が重なるにつれ、兄、頼朝と不仲になり、さらに義経が無断で検非違使の官位を得たこともあって、文治元年(1185)の壇ノ浦の戦いで捕らえた平宗盛父子を護送してきた義経は酒匂(現小田原市)で北条時政、結城朝光らに宗盛父子の身柄を取り上げられ、鎌倉入りを拒まれた。義経は腰越に逗留し、自らの弁解を書いた手紙を大江広元を通じて、頼朝に提出しているが、これが俗に言われる「腰越状」である。義経はとうとう最後まで鎌倉入りを許されることなく、京都へと引き返していく。なお、奥州での戦いで義経が敗死した後、その首が届いたのもやはり腰越であった。この通り義経と腰越のつながりは深いこともあって、満福寺の境内には「弁慶の腰掛石」、また「満福寺のこおろぎ」といった義経や弁慶に関する伝説が多く残っている。