江ノ島電鉄の電車が鎌倉高校前駅と七里ヶ浜駅の間で上下線のすれ違い交換をする峰ヶ原の信号所のあたりに、金洗沢という古い地名が残っている。江戸時代の地誌などによると、昔、ここで金が出たためとか、江の島で採れた銅をここで精錬したから、このような名が付いたとされているが、ここで言う金とは鉄のことなのだろう。稲村ヶ崎の海岸では現在でも砂鉄が採取でき、また極楽寺や稲村ヶ崎、七里ヶ浜近辺には、「針磨橋」や「金山橋」といった金属に関係する地名が今も多く残っている。
また、『吾妻鏡』に金洗沢はたびたび登場する。例えば、養和2年(1182)4月5日条には、頼朝が江の島からの帰途、金洗沢の付近で「牛追物」を見物したとある。また、『平家物語』によれば、文治元年(1185)に平家を滅亡させた源義経が、壇の浦で生け捕った平宗盛・清宗父子を護送してきたが、頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子の身柄だけ受け取らせたのは金洗沢の関であったという。
峰ヶ原での電車交換
宗盛父子の逸話は『吾妻鏡』に記された内容と異なるが、承久3年(1221)8月2日、承久の乱で源光行は幕府の命でこの地で処刑されそうになっている。源光行は『海道記』の著者とされている人物である。また、元仁元年(1224)6月6日に祈雨祈祷のための七瀬の祓いは「由比浜」、「固瀬河」、「六連」、「柚河」、「杜戸」、「江島」と「金洗沢池」で行われているところから、ここが鎌倉の周縁部であり、鎌倉の外と中を隔てる重要地であったことは確かであったようだ。