江ノ島電鉄和田塚駅から南へ少し行くと左側に木に囲まれた場所がある。ここは和田塚と呼ばれ、和田合戦に敗れて死んだ和田義盛一族234人の塚だと言われている。ここはもともと「無常堂塚」と呼ばれ、古墳時代の遺跡であった。鎌倉にある唯一の高塚式古墳で、明治25年(1892)に道路工事を行った際、埴輪などの他に大量の人骨がでたため、合戦で敗れて死んだ和田一族のものとされ、和田塚という名がついたものである。


和田塚

 和田義盛は三浦義明の孫で、治承4年(1180)の頼朝挙兵に際し、叔父で本家の三浦義澄とともに戦い、戦功をあげた。同年には侍所の別当に就任するなど、頼朝の信任が厚く、頼朝の死後も2代将軍頼家の時には政務を合議する13人の合議のメンバーでもあった。しかし、この中で和田氏は北条氏との対立関係に陥り、建保元年(1213)に幕府転覆計画が露わになると、その中には和田義盛の子である義直、義重と甥の胤長が含まれていたこともあり、和田氏と北条氏の対立は一層深刻なものとなった。この事件をきっかけに和田義盛は挙兵し、北条氏討伐の兵を挙げた。しかし、味方になるはずだった三浦義村に裏切られ、三浦本家の応援を得られず、、子の朝比奈三郎義秀や土屋義清らの活躍もむなしく、翌日には疲れ果てた和田軍勢は全滅した。討ち取られた和田一族の首は、その夜に由比ガ浜の浜辺に設けられた仮屋で松明の光の下、義時自身が首実検を行った。なお、『吾妻鏡』には討ち取られた和田勢234人の首は「固瀬河の辺」で晒されたとされており、現在の場所が正確な和田一族の埋葬地であるのかはわからない

撮影日:2011年2月22日
鎌倉市由比ガ浜2丁目
(鎌倉郡乱橋材木座村)


位置

参考文献

『かまくら子ども風土記(改訂十版)』、鎌倉市教育委員会、1991年
白井永二『鎌倉辞典』、東京堂出版、1992年
奥富敬之『鎌倉史跡事典コンパクト版』、新人物往来社、1999年

2011/02/25 UP
2012/05/16 改番(154→226)
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