光明寺から小坪の方向へ少し歩き、海へ出ると材木座海岸の一番南側に来る。鎌倉付近の相模湾は西端の稲村ケ崎からこのあたりまで海岸線が弓なりになっていて小さな湾のようになっているが、この小さな湾の東端は飯島岬という。岬のあるあたりは逗子市と隣あう地域で、東側は逗子市小坪(こつぼ)地区である。この飯島岬の鎌倉側の海上には和賀江島の跡がある。海岸には「てんがしま」と呼ばれる大岩があり、その上に鎌倉町青年団が石碑が立っている。碑には「和賀とは今の材木座の古い呼び方であって、この地には昔、木材などを運んできた港であったことから、やがて材木座と呼ぶようになった。和賀江島はその和賀の港を守る築堤を言ったもので、今から690余年の昔の貞永元年(1232)に勧進上人の往阿弥陀仏が申請をして、平盛綱が監督となって、7月15日に起工、8月7日に竣工した」といった意味の言葉が刻まれている。この和賀江島は鎌倉時代に作られた築島(つきしま)で、中世以降、鎌倉唯一の内港として利用された。現存する日本最古の人口港の跡であり、国の史跡に指定されている。
飯島岬の付近の海岸に転がる石がその跡である。
鎌倉という土地は目の前の由比ガ浜海岸、材木座海岸ともに遠浅で、船の停泊には非常に不都合な地形をしていた。この鎌倉に港を作ろうとした人は往阿弥陀仏という勧進聖人で『吾妻鏡』によれば貞永元年(1232)七月に幕府にその許可を求めている。彼はこの時すでに筑前国葦屋津の新宮浜に築島により防波堤を作った実績があったらしく(「寛喜三年四月五日官宣旨」宗像神社文書)、執権北条泰時をはじめとする幕府もこの事業に協力したようである。現在、残る形で調べる限りでは飯島岬から西方に二百メートルほど海上に突き出した築島の跡がある。同年八月には工事は完成し、以後鎌倉の内港として使われていたようだが、あまり詳しいことはわかっていない。ここに停泊した船の中には唐船もあったらしい。やがてこの港の管理・運営と利用税をとる権利は極楽寺に与えられたようである(「貞和五年二月十一日足利尊氏書状写」)。
「てんがしま」に登り見る材木座海岸。
鎌倉にこの港が築かれた貞永元年という時期は「御成敗式目(貞永式目)」の制定と同じ年で執権泰時の時期であった。承久の乱を経て幕府の朝廷に対する優位が確立したこの頃、幕府の安定化とともに鎌倉が都市として発展し、このような港の必要性も高まったということが考えられる。鎌倉には金沢の六浦という外港もあり、海上輸送が都市鎌倉の発展に大きな関わりを持っていたことがわかる。
飯島岬から見る和賀江島の全景。遠くに稲村ケ崎と江ノ島が見える。
港としては江戸時代まで使われていたようで、鶴岡八幡宮の修理の際の船着き場や周辺の材木座や坂之下村の漁民の船の停泊場として使われていた。現在は引き潮の時に残った石や岩が表れる程度で、これらは満ち潮には多くが沈んでしまう。ここに転がる築島跡の石は相模の西部や伊豆から運ばれてきたものであるという。
なお和賀江島の石碑は平成21年(2009)10月8日、台風18号による高波の被害で倒壊してしまい(平成21年10月15日朝日新聞湘南版)、その後市が引き揚げ、近年ようやく再建された。
和賀江島の碑