光則寺の山門横には「宿谷光則屋敷跡」の石碑が建っている。石碑には「宿谷左衛門尉光則は、北条時頼の近臣である。文応元年(1260)7月16日に日蓮上人が『立正安国論』を時頼に上程しようとし、光則を長谷の邸宅に訪ね、細々とその趣旨を説いてこれを手渡した。日蓮が竜ノ口で処刑されそうになった時、日蓮の弟子の日朗が捕らえられたのは、この(宿谷光則の)邸宅の後ろ山の山腹につくられた土牢であり、(日朗は)長年に渡って土牢の中で日蓮の教えに従い過ごした。(その後)光則は深く日蓮を深く敬服するようになり、ついにはその邸宅を寄進し寺を作った。これがこの光則寺であり、(この話を聞いた人はみな)襟を正して当時のことを思い浮かべるだろう」といった意味のことが刻まれている。
宿谷光則屋敷跡の石碑
宿谷は宿屋とか、屋戸谷とも書き、また読みも「しゅくや」とも読むようで、漢字も読みも一定していない。北条氏嫡流の家来である得宗被官であったと思われる。弘長3年(1263)、病に臥す時頼の看病を許された7人の中に「宿谷左衛門尉」の名が『吾妻鏡』の同年11月20日条などに見えている。日蓮が文永8年(1271)に佐渡に流罪になった際、日朗などの日蓮の弟子をあずかり、その後、日蓮に帰依した人物として知られている。現在、光則寺の裏手には日朗が捕らえられていたという土牢がある。