鎌倉駅の西口から鎌倉市役所の方へ歩き、「市役所前」の交差点で左に折れ、道沿いに進むとマンションの門に問注所の碑がたっている。碑には「元暦元年(1184)源頼朝が幕府(御所)の東西の廂を訴訟裁断を行う所とした。これを問注所と称する。それにより諸人が群集し、喧嘩になることもあったことを嫌い、正治元年(1199)頼家はこれを邸宅外へ移した。この地がその遺跡である」といった意味の言葉が刻まれている。問注所とは鎌倉幕府の初期の訴訟機関で、この地にあったと言われている。
問注所旧蹟の碑
問注所は元暦元年(1184)10月に設立され、御家人の訴訟を担当した。頼朝の将軍期は諮問機関のような存在に過ぎなかったが、実朝の将軍期には判決草案たる「問注所勘状」を作成するまでに発達した。その後、北条泰時の時代になると、主要な官僚と御家人らで構成される評定衆が設置され、問注所は訴訟手続きを受理する機関に変化し、やがて訴訟を扱うのは評定衆や引付衆といった機関に移行していった。初代の執事(長官)は京下りの三善康信で、以後鎌倉幕府滅亡まで三善氏の一族が代々この職を世襲した。また、三善氏の子孫からは「問注所氏」となる一族も出た。問注所は当初は御所の一画で執務を行ったが、正治元年(1199)に裁判に伴う喧騒を将軍頼家が嫌って、三善康信の屋敷内に移され、さらに当地に新造されたとされている(『吾妻鏡』正治元年4月1日条)。碑のあった付近は最近マンションの建設があり、以前とは景観が変わっている。