金沢街道を折れて大御堂橋を渡ると、突き当りに文覚上人屋敷址の石碑が立っている。碑には「文覚は俗称を遠藤盛遠と言い、もと院の武者所であったが年18(の時、)想いを左衛門尉源渡の妻袈裟御前に懸け(ていたが)、誤って袈裟御前を殺し(てしまい)、後悔の余り僧となった。その練行(仏道などの修練の苦行を積むこと)は甚だ勇猛で、寒い日も暑い日も林や草むらで寝て、滝に凝立(身動きしないでじっと立っていること)し、しばしば死に瀕した。養和2年(1182、寿永元年)4月に頼朝の本願として弁財天を江の島に勧請し、これに参籠すること37か日、食を断って祈願を凝らした。この地がすなわちその当時文覚が居住したいた旧跡である」といった意味のことが刻まれている。この地は鎌倉時代前期の僧、文覚(もんがく、1139〜1203)が住んでいた場所であるという。
文覚上人屋敷跡
文覚はもと遠藤盛遠と言い、北面武士として上西門院(鳥羽天皇の皇女統子内親王)に仕えていた。『平家物語』によると、袈裟御前という人妻に恋をしたが、誤って彼女を殺してしまい、そのために出家したというが、史実であるかどうかはわからない。承安3年(1173)に神護寺復興のための寄付を後白河法皇に強要したため、伊豆国に配流となった。流罪地の伊豆では源頼朝と出会い、親交を結んだという。平家が滅亡すると、源頼朝と後白河法皇という二人の外護者を得て、神護寺には多くの荘園が寄進された。文覚はこれらの荘園により、東寺・西寺・高野山・四天王寺といった寺院の復興や修復をなしていった。しかし、後白河法皇、頼朝の死去後は不運で、土御門通親襲撃未遂事件(三左衛門事件)に連座して、佐渡に配流となった。後に許されたが、元久2年(1205)に再び対馬に配流されることとなり、配所へ赴く途中、鎮西で死去した。