京急・江ノ電バスのバス停「長谷東町(はせあずまちょう)」から長谷観音の方向に歩いて行くと、しばらくして庚申塔や石碑が並んだ場所がある。ここは盛久の頚座といわれる場所である。主馬盛久(しゅめもりひさ)は、平盛久のことで、平家の一族の家人である。壇ノ浦の戦いで、平家が滅亡した後、盛久は京都に潜伏し、たびたび清水寺に参り、日頃信仰していた千手観音に千日参詣をしていたが、下女の密告で京都守護の北条時政に捕えられてしまった。その後、盛久は鎌倉へ送られ、この地で首を斬られることになった。しかし、盛久の首をはねる役の者の太刀が根元より折れ、さらに光ものが出現するなどの怪奇が起こった。このため処刑は中止となり、盛久の罪は許された上、紀伊に所領まで与えられた。この話は『平家物語』の長門本にある話であり、観音霊験譚の一種であろう。また、この話をもとにした謡曲で「盛久」というものがある。
現在、この場所には鎌倉町青年団が昭和10年(1935)に建てたものと、大正8年(1919)に建てた二つの石碑がある。
盛久の頚座
〔碑文〕主馬盛久之頚座
盛久ハ主馬入道盛国ノ子ニシテ平家累
代ノ家人ナリ、然ルニ平家滅亡ノ後京
都ニ潜ミ年来ノ宿願トテ清水寺ニ参詣
ノ帰途北条時政人ヲシテ召捕ヘシメ鎌
倉ニ護送シ文治二年六月此地ニ於テ斬
罪ニ処セラレントセシニ奇瑞アリ宥免
セラレ剰ヘ頼朝其所帯安堵ノ下文ヲ給
ヒシト言ウ
昭和十年三月 鎌倉町青年団建
〔現代語訳〕盛久は主馬(しゅめ)入道盛国の子で、平家累代の家人である。しかし平家が滅亡した後、京都に潜んで年来の宿願であった清水寺に参詣の帰途、北条時政の部下に捕えられ、鎌倉に護送され、文治二年(1186)六月にこの地において処刑されようとした時、奇瑞(不思議なこと、奇跡)があり、許されただけではなく、頼朝からその所帯安堵の下文を賜ったと言う。
〔碑文〕
盛久頚座
もりひさのくびざ
平家物語に文治二年六
月廿八日幕府命じて
平家の家人主馬八郎左衛
門盛久を由比ガ浜に
斬らしめんとせしに不思
議の示現ありて之を赦
したまふとあるは此地
なりと云ふ
大正八年六月鎌倉同人会
〔現代語訳〕
平家物語に文治二年六月二十八日、幕府の命令で平家の家人主馬八郎左衛門盛久を由比ガ浜において斬ろうとした時、不思議なできごとがあってこれを許したとあるのはこの地であるという。