辻の本興寺から小町小路を海へ向かって進み、「水道路(すいどうみち)」の交差点を直進し100mほど行ったところに乱橋の碑が立っている。碑には「乱橋は「濫橋」とも言い、一つの石橋の名である。橋の南方に連理木(れんりぼく、一本の木の枝が他の木の枝と一つになってしまっているもの)があり、有名であった。『東鑑』の宝治2年(1248)6月条に「18日寅の刻(現在の午前4時頃)、乱橋のあたりで雪が降り、そのあたり一町ばかりが霜のように(白く)なった」などと見えている。辻町と材木座と分ける細い流れに架かり、近くの逆川橋とともに鎌倉十橋の一つである」といった意味の言葉が刻まれている。
乱橋
この橋は現在は川が暗渠になってしまったが古川(ふるかわ)という川に架かっていた。橋の名の由来は、元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めの際、このあたりから幕府軍の軍勢が崩れ始めたので乱橋と名付けられたとも言われているが、碑文にもあるように、その名はすでに『吾妻鏡』にも出てきている。
乱橋の名はその後、地名として用いられた。『新編相模国風土記稿』によると、材木座村はもともとは一村であったのが、後に乱橋村と材木座村の二村に分かれたとする。だが、以後も乱橋材木座村として一括して扱われていたようである。現在の材木座地域のうち北方が乱橋村、海岸沿いが材木座村で、乱橋が鶴岡八幡宮領、材木座は光明寺領で、それぞれこれに幕府領が混在していた。乱橋材木座村は明治22年(1889)に長谷・坂ノ下・極楽寺の各村と合併し、鎌倉郡西鎌倉村の一部となった。こうして乱橋材木座の名は大字となり、以後も住居表示として使われていたが、昭和39年(1964)に住居表示に変更が行われ、乱橋材木座は由比ガ浜2丁目〜4丁目および材木座一丁目〜6丁目となった。現在、材木座の鎮守である五所神社の例祭を「乱材祭(みざいまつり)」と呼んでいるのは、この名残である。