大倉幕府旧跡の碑からそのまま北へ小道を進むと法華堂跡の碑と白幡神社がある。碑には「堂はもと頼朝の持仏を祀ったところであり、頼朝の死後、その廟所となった。建保5年(1217)5月の和田義盛の乱の折、(義盛勢が)火を幕府に放った際、将軍実朝が難を避けたのはここである。宝治元年(1247)6月5日、三浦泰村(の一族)がここに籠り、北条の軍を迎え撃ち、刀が折れ、矢が尽きるまで(戦い)、一族郎党500余人とともに自害をし、庭中を血に染めたところである」といった意味の言葉が刻まれている。碑のあるところから鳥居をくぐり、石段を登ると頼朝の墓と伝えられる層塔がある。

 
法華堂跡の碑と白旗神社

 鎌倉幕府の創設者であり、初代の鎌倉殿、源頼朝は正治元年(1199)1月13日に死去した。頼朝は自身の持仏堂である法華堂に葬られた。このような墳墓の地に建てられた堂のことを「墳墓堂」という。頼朝の「墳墓堂」は、もともと頼朝の持仏堂であった法華堂とされたのであった。ただ、堂といっても、幕府の創設者である頼朝の墳墓堂は、一種の寺院のような規模であったらしい。頼朝の死の1年後、この法華堂では頼朝の一周忌の仏事が行われている(『吾妻鏡』正治2年(1200)1月13日条)。以後も頼朝関連やその他の仏事が毎年のように行われており、鎌倉幕府における祭祀や仏事において重要な寺であったが、宝治元年(1247)の宝治合戦では、敗れた三浦泰村らの一族500名が法華堂で頼朝の御影の前で自害した(『吾妻鏡』宝治元年(1247)6月5日条)。法華堂の本尊は阿弥陀如来であったとされ、江戸時代は鶴岡八幡宮寺の相承院が管理していた。明治期になると神仏分離のため相承院から分離され、明治5年(1872)に頼朝を祀る白幡神社が鶴岡八幡宮から移され、法華堂は廃された。ここにあった仏像のうち、如意輪観音像は西御門の来迎寺に移された。

 
頼朝の墓と西側にある横穴墳墓群

 石段を登ると、頼朝の墓と伝えられる層塔があるが、これは江戸時代に造られたものである。塔ははじめは五輪塔であったが、薩摩藩の藩主島津重豪が現在の層塔に改修した。その後も江戸期には何度か周辺が整備されたり、修理されたようである。実際の頼朝の墓や法華堂の位置は明確ではない。頼朝の石塔から西方へ険しい山道を行くと、毛利季光・大江広元・島津忠久の墓がある。大江広元は幕府の創設を支えた京下りの官人で、毛利季光はその子で評定衆などになった人物である。いずれも長州藩の毛利氏の祖とされている。これらはどちらもやはり江戸時代に島津氏や長州藩によって修造されたものであり、頼朝の墓と同様、これらの墓も本来は供養塔と言うのが本来であろう。
 ただ供養塔とは言え、頼朝の墓などは江戸時代以来、多くの人々がこの地を訪れ、鎌倉の人や観光客がここを頼朝の墓と認識してきたことは確かである。「鉄道唱歌」東海道編にも「ここに開きし頼朝が 幕府の跡は何方ぞ 松風寒く日は暮れて 答へぬ石碑は苔あおし」と歌われている。

 
大江広元らへの墓への石段と三浦一族のやぐら(右)

 大江広元らの墓から石段を下りいく途中に一つのやぐらがある。ここは宝治合戦に敗れた三浦泰村らの墓とされており、現在もやぐらの中には卒塔婆などが備えられている。さらに下りると平場があるが、ここは近年、北条義時の法華堂と推定される遺跡が見つかった。平成17年(2005)に調査が行われ、中世期の堂跡やかわらけなどが見つかった。

撮影日:2011年2月10日
鎌倉市西御門2丁目
(鎌倉郡西御門村)


位置

参考文献

稲葉一彦『「鎌倉の碑」めぐり』、表現社、1982年
『かまくら子ども風土記(改訂十版)』、鎌倉市教育委員会、1991年
(ジャパンナレッジ版)『日本歴史地名大系』、平凡社

2012/01/28 UP
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