光明寺の北方の谷を弁ヶ谷(べんがやつ)といった。現在、材木座4丁目の住宅地の道に鎌倉青年会の史跡碑がたっている。碑には「元亨元年(1321)、相模守北条高時が創建した金剛山崇寿寺(すうじゅじ)はこの地域にあった。道興准后の記した『廻国雑記』の見える「紅谷」と「田代系図」にあり千葉介の敷地とする「別谷」とはともに弁谷と同じとする説があるが、詳細はわからない」といった意味の言葉が刻まれている。


弁谷

 谷は紅ヶ谷(べにがやつ)、別ヶ谷(べつがやつ)とも呼ばれたという。谷には北条高時が創建した金剛山崇寿寺や新善光寺といった寺があったものの現在はどちらも廃寺である。崇寿寺は元亨元年(1321)に創建された臨済宗の寺で、北条貞時の十三回忌が行われたとこでもあるという。かなりの規模をもっていたらしいが、室町後期頃からしだいに衰え、いつしか廃寺になったという。なお、享徳元年(1452)11月9日の「京極持清書下」に「鎌倉弁谷高御蔵最宝寺寺領等事」という文言が見えるが、「高御蔵」なるものは『吾妻鏡』にも見えており、このあたりの地名であったか、何らかの倉がこのあたりにあったということになろうか。

撮影日:2010年11月19日
鎌倉市材木座4丁目
(鎌倉郡乱橋材木座村)


位置

参考文献

稲葉一彦『「鎌倉の碑」めぐり』、表現社、1982年
(ジャパンナレッジ版)『日本歴史地名大系』、平凡社

2011/04/15 UP(暫定)
2012/01/22 UP(正式)
2017/06/05 CSS改修
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