浄光明寺の入り口には藤谷黄門遺跡の碑がたっている。碑には「冷泉為相卿は為家の子である。従二位中納言となる。和歌所の事によって兄の為氏と相論となり、母阿仏尼とともに鎌倉に来て幕府に訴え、藤ヶ谷に住して藤谷殿と称された。「藤谷百首」と呼び、世に伝承された和歌はこの地で詠まれたものである。網引地蔵はその建立に(為相が)関わると言われている。為相卿の墓は(浄光明寺の)後ろ山の頂にあり、五輪塔(※実際は宝篋印塔)で、「月巌寺殿玄国昌」の八字が刻まれていたというが、今はもう摩耗して字体がわからない」といった意味の言葉が刻まれている。この地は鎌倉後期の歌人、冷泉為相(れいぜいためすけ)の屋敷があった場所だと言われている。
藤谷黄門遺跡
為相は藤原為家の子である。為家にはすでに為氏・為教といった子があったが、後に阿仏尼との間にできた子、為相を愛し、為氏に譲っていた播磨国細川庄を悔い返し(中世、いったん譲った所領を取り戻すこと)、為相に譲った。これがもとで為氏と為相は訴訟となり、母の阿仏尼や為相はたびたび関東に下向し、幕府に裁許を仰いだ。母の阿仏尼がこの時残した日記が著名な『十六夜日記(いざよいにっき)』である。しかし、こうしたことから為相は次第に関東の要人と親しくなった。このため晩年は関東に居住し、ここ扇ヶ谷の藤ヶ谷に邸宅を構えたので、藤谷殿と呼ばれた。墓塔と伝えられる宝篋印塔も浄光明寺にある。ちなみに黄門とは中納言の唐名(とうみょう、中国風の呼び方)であり、藤谷黄門とは藤谷中納言の意味である。