妙本寺の総門の傍らには比企能員邸址の碑がたっている。碑には「比企能員は頼朝の乳母・比企禅尼の養子であるが、禅尼とともにこの地に住した。この地を比企ヶ谷というのもこのことに基づく。能員の娘は頼家の寵愛を受け、若狭局と称しており、(頼家の)子の一幡を生む。建仁3年(1203)に頼家が病になると母の政子は関西の地頭職(じとうしき)を分け、頼家の弟千幡(せんまん、後の実朝)に授けようとした。能員はこれに怒り、密かに北条氏を討とうと謀をめぐらせたが、かえって北条氏のためにこの地において滅亡した」といった意味の言葉が刻まれている。
比企能員邸址の碑
比企氏は武蔵に本拠を持つ武士団である。この一族の比企尼(ひきのあま)は源頼朝の乳母であり、頼朝の伊豆配流中も尼は頼朝をよく助けた。このため尼の養子の比企能員は頼朝の信頼が厚く、特に政子は比企ヶ谷の能員の邸宅で頼家を生んでいる。頼朝亡き後は娘の若狭局が頼家に嫁ぎ、比企氏の権力は北条氏を凌ぐほどのものとなった。このため北条氏と敵対し、とうとう建仁3年に比企氏の乱で、比企一族は滅亡してしまった。この後、比企氏の邸宅跡にできたのが妙本寺である。