若宮大路を由比ガ浜の方向に行くと一の鳥居の近くに畠山重保邸跡の碑と畠山重保主従四人の墓と伝えられる宝篋印塔がある。碑には「畠山重保は重忠の長子であるが、かつて北条時政の婿平賀朝雅と争った。朝雅その恨みから重保父子を時政に讒訴(ざんそ)した。時政はもともと重忠が頼朝の死後その遺言によって頼家を保護するのを見て、何か事があればこれを討とうと思っていた。よって実朝の命令によって兵を遣わして重保の邸宅を囲んだ。重保は奮闘の後に死んだ。時は元久2年(1205)6月12日のことでこの地はつまりその邸宅の跡である。その翌日、重忠もまた偽りによって誘い出され、武蔵国二俣川において討ち死にした」といった意味の言葉が刻まれている。
畠山重保の供養塔
畠山重保は武蔵の武士で一谷の戦いで有名な畠山重忠の子である。鎌倉幕府の重臣で、畠山重忠は北条時政の娘を娶り、この間に重保が生まれていた。しかし、元久2年(1205)に北条時政の後妻牧の方の女婿の平賀朝雅と重保が上洛中に酒宴の席で口論となり、対立したことを契機に北条時政は由比ガ浜のあたりで重保を謀殺した。続いて北条義時、時房の兄弟をして父の重忠を攻めさせ、武蔵国二俣川でこれを討った。
こうして北条時政は武蔵の大豪族、畠山氏を討つことができたが、もともとは畠山氏の討伐に批判的であったとされる義時・時房の兄弟と父時政の間に対立が生じた。やがて牧の方が平賀朝雅を将軍に擁立しようとする陰謀が発覚すると、政子は長沼宗政、結城朝光、三浦義村らを派遣して時政の邸宅にいた実朝を義時邸に保護し、時政と対抗する姿勢を見せた。これによって時政は出家、失脚し、朝雅や稲毛重成、榛谷重朝らは討たれた(牧氏事件、平賀朝雅の乱)。時政のあとは義時が継いだ。
宝篋印塔は関東形式のもので、安山岩製。高さは345.5センチ。基礎部に「明徳第四〔癸酉〕霜月三 日大願主 比丘道有」の銘がある。早くから畠山重保の墓という伝承が伝えられており、江戸時代の史料にすでにそれが見えている。
なお、この宝篋印塔は「六郎さま」と呼ばれ、咳の病に効果があり、竹筒にお茶を入れて奉納する習俗があるという。