八幡宮の流鏑馬道の出口付近には、畠山重忠邸址の碑がたっている。碑には「正治元年(1199)5月頼朝の娘の三幡姫が病み、これを治すため、当時の名医丹波時長が京都から来たことがあった。『吾妻鏡』によれば7日に時長は中原親能の亀ヶ谷の家より畠山重忠の南御門の家に移住した。これは(三幡姫の)近くにお仕えして、姫君の病気を治療するためであったという。この地がつまりその南御門の家の跡である」といった意味の言葉が刻まれている。このあたりは畠山重忠の屋敷跡があったとされる場所である。


畠山重忠邸址

 畠山重忠は武蔵国男衾郡畠山荘を本拠とする武士で、治承4年(1180)の頼朝挙兵時は平家方であった。石橋山の合戦に向かい、間に合わず引き返す三浦勢と由比ガ浜、小坪のあたりで戦い、後に三浦氏の本拠地衣笠城を攻めてこれを落としたのは重忠であった。しかし、10月に頼朝が房総を平定し、武蔵に入ると、他の武蔵武士とともに頼朝に服属した。その後は基礎義仲や平家の追討軍に従軍し、宇治川の合戦や一谷の戦で活躍で活躍した。特に一谷の戦で愛馬を気づかい自ら背負って鵯越をおりた『平家物語』の話が有名である。
 幕府の成立後は建久元年(1190)と同六年の頼朝上洛の先陣をつとめるなどした。これに先立って文治元年(1185)に河越重頼が義経に縁座して失脚したため、河越氏が持っていた武蔵国留守所惣検校職を引き継ぐなど武蔵武士の中心的存在となっていた。
 しかし、元久二年(1205)、北条時政の後妻牧の方の女婿である平賀朝雅と重忠の子、重保が在京時に対立した事件を発端に、北条時政・牧の方の謀略により、重保が鎌倉で討たれ、重忠も武蔵国二俣川で幕府軍によって討たれた。
 鎌倉における重忠の屋敷は幕府の南門の前辺にあったとされ、碑文にある通り頼朝の娘の三幡姫が病気になった折、治療にあたった丹波時長が畠山重忠の南御門の家に移ったと『吾妻鏡』にある。頼朝の重臣であっただけに幕府に隣接する位置に屋敷を構えることができたのであろう。

撮影日:2011年2月10日
鎌倉市雪ノ下3丁目
(鎌倉郡雪下村)


位置

参考文献

稲葉一彦『「鎌倉の碑」めぐり』、表現社、1982年
『かまくら子ども風土記(改訂十版)』、鎌倉市教育委員会、1991年

2011/04/06 UP(暫定、画像のみ) 2011/10/24 UP
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