八幡宮裏から巨福呂坂(こぶくろざか)へ向かう途中、西北の地域一帯を御谷(おやつ)という。住宅地の小道を進むと二十五坊の跡が残る。谷戸の入り口には鎌倉町青年会の史跡碑がある。碑には「この地は頼朝の時代以来、八幡宮の供僧の僧舎である二十五坊と別当坊が置かれた所である。かの別当公暁が実朝の首を手に潜んだ(公暁の)後見人の備中阿闍利の邸宅もまたこの地にあった。応永年間(1394〜1427)に院宣によって坊の称は、院と改められた。戦国の世に至って鎌倉管領が衰微するとともに各院も次第に廃絶し、天正(1573〜1592)の末には僅か七院を残すのみとなった。文禄年間(1592〜1596)に徳川家康が五院を再興して十二院となったが、明治維新後にはついにまったく廃墟となってしまった」といった意味の言葉が刻まれている。
二十五坊の跡
このあたりはもともと鶴岡に仕える僧侶(供僧)の住居坊があった場所である。鎌倉時代にはこの僧侶たちは二十五人と定められ、二十五坊の名はここから起きた。碑文にもある通り、室町時代には廃絶するものも多く七坊にまで減ったが、徳川家康によって十二坊に再興された。明治の神仏分離令によって鶴岡八幡宮は寺院ではなくなり、供僧は廃止されたため、二十五坊は廃絶した。現在、小道の東側に発掘調査をした解説パネルなどがある。