筋違橋から横浜国立大学教育人間科学部附属鎌倉小中学校の正門前に行き、そこから西へ100mほど進み、突き当りで左に曲がってグラウンド沿いに進むと西御門の碑がある。碑には「西御門は法華堂の西方の地を言う。大倉幕府正門の前面にあたるため、この名がある。報恩寺・保寿院・高松寺・来迎寺などがこの地にあったが、今は高松・来迎の2寺のみ残っている」といった意味の言葉が刻まれている。
西御門
このあたり一帯は今も地名として西御門と呼ばれており、鎌倉幕府の大倉御所の西門付近にあたったことからこの名があるという。御所の近くにある要地で、御所の他に三浦氏の邸宅もあったとみられる。このため建保元年(1213)5月に和田義盛の乱があった際には時の将軍、実朝がこの西御門の地で負傷した武士らの勲功のため実検を行っている。江戸時代にはこのあたりから鶴岡八幡宮東北の谷までが西御門村となった。
碑にある通り、西御門にはかつて報恩寺・保寿院・高松寺・来迎寺の各寺と、尼寺の太平寺があった。しかし、報恩寺・保寿院・太平寺が廃絶し、江戸初期に太平寺の跡にできた高松寺も昭和6年(1931)に宮城県栗原郡若柳町(現在の栗原市)に移転したため、現在西御門の地に残る寺院は来迎寺だけである。