宝戒寺から小町大路を辻説法旧跡の方向に南へ行くとすぐに鎌倉青年団が建てた「土佐坊昌俊邸跡」の碑がある。碑には「堀川の館に義経を夜襲して負け、死した者は土佐坊昌俊である。『東鑑(吾妻鏡)』の文治元年(1185)10月の条文に、この追討にあたって、襲撃を実行する人物を決める際、『人々が多く辞退したのに対して、昌俊が進んで承諾し名乗り上げたので、殊に(頼朝から)御感(御感心)を蒙った。出発の前に(頼朝の)御前に参上し、老母と幼い子らが下野の国にあるので、憐憫(れんびん:憐み)をお願いするという由のことを申し上げた』とある。いま一度帰ることのない悲壮な覚悟をもって出門したこの壮士の邸宅はこの地にあったということである。」といった意味の言葉が刻まれている。
土佐坊昌俊邸址の碑
土佐坊昌俊はもともとは興福寺西金堂の堂衆で、後に鎌倉の頼朝に使えるようになった武士である。源頼朝が平家追討などで手柄を上げた弟の義経を討つことを決めた際に、その襲撃役として京都に派遣された。
頼朝の弟の義経は戦術巧みで平家の追討や木曽義仲を討つことなどに手柄を上げが、軍功が重なるにつれ頼朝は義経を警戒し、また平家追討が終わった後、朝廷から頼朝に無断で位を授かってしまったことで両者の関係は完全に悪くなってしまった。頼朝はついに義経を討つことを決心し、武将に指示するが、多くの武将は義経の戦術に巧みなことや頼朝の肉親を討つことに戸惑い誰もその役を引き受けなかった。その中で土佐坊昌俊ただ一人がこの任務に手を挙げた。昌俊にしてみれば手柄を上げるチャンスと見たのだろうか。義経に気づかれることを恐れた昌俊はわずか83騎で京都・六条室町の義経邸宅を急襲したが、義経の反撃にあって鞍馬の山中へと逃げ隠れた。しかし、すぐに義経方の者に探し当てられ、六条河原で斬られてしまった。その土佐坊昌俊の屋敷は現在の宝戒寺の向かい側にあったものと見られる。