西御門の来迎寺の入り口に太平寺跡の碑がたっている。碑には「太平寺は尼寺で、伝えるところに頼朝が池禅尼の旧恩に報いるため、その姪の所望を聞き、彼女を開山としたところであるという。足利時代に鎌倉公方の足利基氏の子孫、清渓尼が中興したが、天文年間(1532〜55)に里見氏が鎌倉を攻めた時、住持の青岳尼を奪って安房に連れ去ってしまったことにより、廃寺になってしまった。今の高松寺は寛永年間(1624〜44)に紀州徳川家の家老、水野氏がその太平寺の跡を改修したものである」といった意味の言葉が刻まれている。
大平寺跡
太平寺は禅宗の尼寺で廃絶する前は尼五山の筆頭だった。開基・開山は妙法尼。頼朝が平治の乱で永暦元年(1160)2月に捕らわれた時、平清盛の継母である池下禅尼が頼朝が亡児家盛に似ていることから助命を乞い、頼朝は流罪で済んだ。後に頼朝が池下禅尼の旧恩に報いるために姪である妙法尼の願いを聞き入れ、建立したという伝説がある。一方で史料上からは弘安6年(1283)頃と考えられている。鎌倉時代から室町時代に繁栄し、特に関東公方足利基氏の室清渓尼、持氏の娘昌泰道安、成氏の娘昌全義天と足利氏関係の女性が住持したことにより、太平寺は足利氏との関係が続いた。
弘治2年(1556)、安房に勢力を持つ里見義弘が房総半島からに鎌倉に侵攻した際、義弘は尼僧、青岳尼(しょうがくに)と寺の本尊、聖観音立像を略奪して安房へと連れ去った。青岳尼は天文7年(1538)に戦死した小弓公方足利義明の娘と伝えられ、安房に連れ去られた後、義弘の命によって還俗させられ、妻になったという。こうして住持を無くした太平寺は廃寺となったが、安房へと持ち去られた聖観音像は東慶寺の蔭涼軒主の交渉によって鎌倉に戻され、現在も東慶寺にある。また旧太平寺の仏殿は現在の円覚寺舎利殿である。
太平寺の旧跡には江戸初期に日蓮宗の高松寺(こうしょうじ)が建立されたが、昭和6年(1931)に宮城県栗原郡に移転したため現在は同地にはない。