明石橋の交差点から東へ進み、住宅街の中の小道を進むと大慈寺跡の石碑が立っている。碑には「大慈寺は建暦2年(1213)に源実朝の創建によるもので「新御堂」と号した。建保2年(1214)7月27日に大供養が行われ、北条政子や将軍実朝が供奉人を伴ってこれに臨み、後に正嘉元年に征夷大将軍宗尊親王の時、本堂・丈六堂・新阿弥陀堂・釈迦堂・三重塔・鐘楼などをことごとく修理を加え、荘厳の美は前より優れたものとなったことが『東鏡(吾妻鏡)』に見えている。当時の盛大な眺めが思う浮かべられる。それから700年 ひとかけらの礎石をも見つけられないことに世の移り変わりをただ思うばかりである」といった意味の言葉が刻まれている。
大慈寺跡
このあたりは大慈寺の旧跡とされている。大慈寺は「大倉御堂」とも呼ばれ、源実朝の御願による創建である。建立の経緯は『吾妻鏡』に詳しく見えている。建暦2年(1212)4月18日に立柱・上棟し、7月に惣門が建立され、建保2年(1214)7月27日に栄西を導師に開堂供養が行われた。以降、大慈寺は幕府、とりわけ北条氏にとっても重要な位置を占めるようになり、嘉禄2年(1226)に北条時房は政子追善のための三重塔を大慈寺内に創建、義時の三年忌には釈迦堂を同じく大慈寺内に建てている。安貞元年(1230)には泰時の御願で政子の三年忌の供養のため、堂の供養を評定衆などに諮り、評議を経て、4月に阿弥陀堂の供養を行った。また寛喜2年(1230)に泰時の子、時氏が死去すると、大慈寺の傍らの墳墓堂に葬られた。以後も時氏供養や政子供養のための仏像や堂の供養が行われており、大慈寺が北条氏関係の強いことがわかる。このため正嘉元年(1257)には大規模な修理が行われ、荘厳な伽藍に補修されたという。このように鎌倉時代には幕府と北条氏により寺勢を維持したが、室町後期以降は不明で、いつの頃か廃絶した。