鎌倉駅裏口から今小路を進んで、英勝寺前の横須賀線踏切(寿福寺踏切)を渡って線路沿いを岩船地蔵堂の方向に進むと、やがて右手にやぐらのようなものがある。このやぐらは千葉介常胤の次男で奥州征伐などで戦功をあげた相馬師常の墓と伝えられている。やぐらの手前には石碑が立っており、「師常は千葉介常胤の第二子にして相馬氏の跡を継ぎ、巽荒神のあたりに邸宅を構えていたが、元久二年(1205)11月15日に67歳で正座し、合掌して決定往生(※必ず往生したこと)を遂げ、その結縁を求めて僧俗あらゆる人々が集まったという。岩窟の中の宝篋印塔は師常の墓である」といった意味の言葉が刻まれている。
相馬次郎師常之墓
相馬師常は碑にある通り千葉常胤の次男であるが、奥州合戦の功績として陸奥国行方郡(なめかたぐん、現在の相馬市・南相馬市あたり)を所領として与えられ、相馬氏を名乗った。この一族は後に奥州の戦国大名、相馬氏となった。師常は現在の巽荒神の付近に屋敷を構えていたとされている。熱心な念仏信徒で67歳で合唱往生をとげたという。現在、やぐらの内部にある宝篋印塔が師常の墓だという。なお八坂神社はもと、相馬天王と呼ばれ相馬師常を祀っていた。