宝戒寺の前から金沢街道を進むと横浜国立大学教育人間科学部附属小中学校の付近でなだらかなカーブに差し掛かる。ここに筋替橋(すじかえばし)の碑がたっている。碑には「鎌倉十橋の一つである。宝治元年(1247)6月、三浦泰村一族の反乱に際し、北条時頼の外祖父である安達景盛はその一族とともに兵を率いてこの橋の北辺より泰村の邸宅を攻めたことが『吾妻鏡』に見えている。また文永(碑文中の文平は誤り)2年(1265)3月に鎌倉における商家の営業地域を数か所に限定した触書のなかに「一所須地賀江橋」とあるのはこの付近のことである」といった意味の言葉が刻まれている。
筋違橋
現在は川が暗渠になっているため橋はない。下を流れていたのは八幡宮近辺の山から流れ出し滑川に合流する南御門川であるが、全体に渡って川の様子はほとんど見えず、わずかに附属小中学校の第2グラウンドへ上る坂道に、暗渠の蓋越しにその姿を見える。またこの碑のあるところから信号をわたって、正面の路地をすすみ、ごみ収集場の奥からも川は川は見えるが、すぐに滑川に合流する。
なお、橋の名の由来は横大路にむかって、斜めに掛けられていたからだと言われているが、意外にも「筋違橋」という橋は鎌倉のみならず各地にあるようである。『吾妻鏡』にもこの名が出てくるが、「須地賀江橋」と記されている場合もある(『吾妻鏡』文永2年(1265)3月5日条)。宝治元年(1247)の宝治合戦の際、甘縄の屋敷から出撃した安達泰盛はこのあたりで三浦氏への攻撃をはじめた。