湘南モノレール湘南深沢駅から大船方面へ戻ると、やがてモノレールの高架支柱の近くに洲崎古戦場の碑が建っている。碑には「このあたりは古くは洲崎郷に属し、元弘3年(1333)5月に新田義貞の鎌倉攻めの折に、新田方の武将堀口三郎貞満と大島讃岐守守之が洲崎方面より攻め、鎌倉方は赤橋相模守守時を大将に迎撃し、戦闘は六十数度に及び、ついに(北条方は)敗れ、守時以下九十余人は自害した古戦場である」といった意味の言葉が刻まれている。現在の山崎・寺分・梶原一帯の地域は昔は洲崎(須崎)と呼ばれていていた。元弘3年(1333)、新田義貞の鎌倉攻めの際に、この地は幕府軍と新田軍との激戦地となった。


洲崎古戦場の碑

 新田勢による鎌倉攻撃は『太平記』によると5月18日から始まった。新田勢は巨福呂坂、極楽寺坂、化粧坂の三方面から鎌倉に攻め込んだが、このうち巨福呂坂を守っていた執権赤橋守時は1日のうちに65回もの突撃を敢行、猛攻撃をした。このため赤橋守時率いる部隊は新田義貞、脇屋義助の背後にあたる洲崎まで前進した。しかし、壮絶な戦いの末、守時の軍勢は減り、ついに守時と侍大将南条高直ら90余人の北条勢は自害して果てた。守時の部隊を破った義貞は18日の夜には巨福呂坂に向かうが、この坂の守りは固く、突破はできなかった。
 この碑から南西方向の鎌倉市の「深沢多目的スポーツ広場」の中に泣塔と呼ばれる宝篋印塔がある。周辺にあるやぐらとともに古戦場との関係が考えられるが、銘文には文和5年(1356)とある。泣塔のあるあたりは陣出(じんで)と呼ばれているが、これは北条勢の陣がこのあたりに設けられたからと言われている。

撮影日:2005年7月
鎌倉市寺分1丁目
(鎌倉郡寺分村)


位置

参考文献

『太平記』(新編日本古典文学全集、小学館、ジャパンナレッジ版)

2013/02/13 UP(画像は差し替え・追加予定)
2017/07/26 CSS改修
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