鎌倉駅西口から交差点「市役所前」を直進し、御成トンネルを通ってさらに直進すると、次の新佐助トンネルの手前200mほどのところに道路に面して松谷寺及佐助文庫跡の史跡碑がたっている。碑には「昭和5年(1930)、金沢文庫に伝存していた仏典の奥書より発見され、初めて世に知られるに至った佐介文庫は、松谷文庫または佐介松谷文庫とも称し、金沢文庫と同時代頃の創立と推察されているが、その創立者や所在地、規模、存続期間などは詳細にはわからない。しかし、北条氏の一族である佐介氏がその邸宅内に寺院と文庫を創立し、地名を寺の名前と文庫名に用いたものと思われる。この地には松が枝または松が谷の伝承があるので、松谷寺および佐介文庫はともにこの付近に所在していたものと推定されている」といった意味の言葉が刻まれている。
松谷寺及佐助文庫跡の碑
このあたりは松谷寺および松谷文庫(まつがやぶんこ、佐介文庫とも)があった場所と言われている。この文庫の存在は金沢文庫が所蔵する古文書によって知られている。例えば『阿字肝心抄』という聖教(しょうぎょう、仏教の経典のこと)に「佐介谷」で書いた旨が見え、また別の聖教には「佐介松谷文庫」の文言が見えている。この文庫の創設者は北条氏の一族である北条時盛と推定されている。時盛は承久の乱で北条泰時とともに幕府軍の大将として上洛し、以後六波羅探題、連署として泰時を支えた北条時房の子である。時盛は父の時房が鎌倉に帰った後、父のあとを継いで六波羅探題南方に就任し、仁治3年(1242)5月までその任にあたった。この時盛は鎌倉に帰った後は佐介ヶ谷に邸宅を構えていたため(『吾妻鏡』寛元4年(1246)6月27日条および建長2年(1250)7月4日条)、この一門は佐介流北条氏と呼ばれている。文庫の詳細な様子はわからないが、佐介流北条氏が関与してこの地で聖教などの書写・収集が行われていたのであろう。なお、松谷(まつがや、まつがやつ)は佐介ヶ谷の支谷とみられるが、ここには松谷寺(しょうこくじ)という寺があった。鎌倉後期の聖教に「鎌倉松谷寺」と見え、一切経の木版を開板を行っていたらしい(年未詳10月5日付「足利直義書状」)。