稲村ヶ崎から小動岬までの間の海岸は、七里ヶ浜と呼ばれている。この名は、稲村ヶ崎と小動岬の間の距離が7里であるからと言われている。しかし、実際にこの区間の距離は、それほどないため、この地名の由来は不明である。稲村ヶ崎側の砂浜は、今でも砂鉄が多く混じっている。そのためか、付近には金洗沢などの鉄に関する地名が残っている。また、音無川極楽寺川、行合川の3つの川が相模湾に流れ込む。
七里ヶ浜
現在でこそ、海岸沿いに国道134号線(旧湘南道路)や江ノ島電鉄線が並走しているが、かつては霊山山と稲村ヶ崎は山続きであり、西方から鎌倉に向う上では難路であったようだ。忍性が開いたとされる極楽寺坂が開削されてから、鎌倉と西方を結ぶメインルートになったと見え、中央部には文永8年(1271)に日蓮の竜ノ口刑場での死刑の中止を伝える使者と、刑場での怪奇を幕府に伝える使者が行き合ったという行合川の伝説が残る。一方、元弘3年(1333)の新田義貞による鎌倉攻めの際、極楽寺坂の堅守に拒まれた新田勢は、稲村ヶ崎の海沿いを突破し、鎌倉に突入している。
明治期には、ドイツのベルツ博士が七里ヶ浜を保養地として紹介し、以後結核の療養所や保養地、別荘が建設された。明治36年(1903)には現在の江ノ島電鉄の線路が片瀬から行合橋まで伸びてきている。大正12年(1923)の関東大震災で七里ヶ浜には津波が押し寄せ、深刻な被害をもたらした。昭和3年(1928)から現在の国道134号線が霊山山と稲村ヶ崎の間を開削し、極楽寺坂を経ないで長谷方面と陸路が直通するようになる。
現在は宅地化が進み、海岸から丘陵地帯に向って住宅地が形成されており、町名としての「七里ガ浜」が存在する。稲村ヶ崎付近をはじめとし、七里ガ浜の海岸は、波が荒く、遠浅ではないので海水浴に向かず、基本的に遊泳禁止である。