八幡宮の裏から北鎌倉方面へ鎌倉街道を進むとまもなく落石防護用のシェードがある。ここは現在の巨福呂坂、新道であり、ここを越えると円応寺を経て建長寺、山ノ内に出る。旧道の巨福呂坂はこの新道よりさらに上の場所に位置しており、八幡宮の裏から住宅街の小道を進み、青梅聖天の横を通って登っていく道がそれである。鎌倉の七切通しの一つで小袋坂とも書く。青梅聖天があるので、現在この坂は聖天坂とも呼ばれている。青梅聖天の下には庚申塔や道祖神、供養塔群がある。これらの石塔群は改修工事で多くの人が命を落としたのでその供養塔だという。
旧道の庚申塔
巨福呂坂切通しは仁治元年(1240)10月に執権の北条泰時が造営、整備したもので建長2年(1250)六月には北条時頼が修理を加えている。弘安5年(1282)には鎌倉に入ろうとした一遍が巨福呂坂で北条時宗の一行と出会い、武士に制止されて鎌倉入りが叶わなかったことが『一遍上人絵伝』に描かれている。元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めでも巨福呂坂は戦場となったらしい。
新道のシェード
旧道の終点部分からは現在の巨福呂坂新道との高低さが見て取れるが、旧道は新道よりかなり高いところを通っていた。明治時代に新道が開かれたが、大正12年(1923)の関東大震災で崩落したため、さらに掘り下げて現在の新道が通った。昭和31年(1956)に再度拡幅、平成5年(1993)には落石防護シェードが作られた。旧道は現在は途中で途切れており、終点は私有地かつ絶壁になっており、山ノ内側への道は残っていない。