坂ノ下から極楽寺方面へ抜ける坂は極楽寺坂である。唱歌「鎌倉」にも「極楽寺坂 越え行けば 長谷観音の堂近く 露坐の大仏おわします」とある通り、鎌倉の旧市街に入る七口の一つであった。坂の長谷側の登り口には石碑が立っており、「このところは山が幾重にも重なって連なる場所であったのを極楽寺の開山忍性菩薩が開削して一筋の道を開いたという。すなわち極楽寺切通しと言うのはここである。元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めに際し、大館次郎宗氏・江田三郎行義は新田軍の大将としてこの道に向かい大仏陸奥守貞直は鎌倉軍の大将としてこのところを固めて互いに戦った」といった意味の言葉が刻まている。


極楽寺坂の碑

 この道が開かれる以前は稲村ヶ崎の磯伝いを通るルートがとられていたようであり、建長4年(1252)4月1日に摂家将軍に代わって鎌倉に入った宗尊親王は稲村ヶ崎を通っている。極楽寺坂の開削時期は正確にはわからないが、鎌倉時代の後期であることは確かである。一説に極楽寺の忍性が開いたという説もある。元弘3年(1333)に鎌倉攻めを行った新田義貞はこの坂をめぐって北条軍と大激戦になり、多くの戦死者を出したが破れなかった。そこで義貞は稲村ヶ崎に回って、そこを突破し、鎌倉に入った。


坂ノ下側の登り口。左手に見えるのは成就院の参道入り口と墓地

 坂ノ下側の口に日限地蔵と極楽寺坂の碑、中腹には成就院、極楽寺側の口には上杉憲方の墓や西方寺の跡がある。現在、車が通る現道は旧道は明治時代以降に掘り下げられた新道で、旧道は現在よりもずっと高いところを通っていた。これは現在の成就院の参道であり、いま成就院の山門前から下の新道を見下ろすとその高低差を知ることができる。

撮影日:2011年2月22日
鎌倉市極楽寺1丁目
(鎌倉郡極楽寺村)


位置

参考文献

稲葉一彦『「鎌倉の碑」めぐり』、表現社、1982年
(ジャパンナレッジ版)『日本歴史地名大系』、平凡社

2011/04/16 UP(暫定、画像のみ)
2011/10/24 UP
2017/06/04 CSS改修
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