鎌倉駅から小町通りを通り抜け、鎌倉街道に出る手前に鉄井(鉄ノ井、くろがねのい)がある。傍らには石碑が立っており、「鎌倉十井の一つで水質は清く、甘美で盛夏といえども枯れることはない。昔、この井戸の中より高さ五尺あまりの鉄観音が掘り出されたことにより鉄井と名づけられたという。正嘉2年(1258)1月12日の丑の刻に秋田城介康盛(正しくは泰盛、安達泰盛のこと)の甘縄の邸宅より火災が起き、折からの南風にあおられて火は大蔵の薬師堂の後ろ山を越えて、寿福寺に至り、寺内の一堂も残すことなく焼き、さらに炎は新清水寺(しんせいせいじ)、窟堂、若宮の宝蔵と別当坊などを焼いたことが『吾妻鏡』に見えている。この観音はその火にかかり土中に埋もれていたものを掘り出したもので、像は新清水寺の観音と伝え、後にこの井戸の西方の観音堂に安置されて置いたが、明治初年に東京に移ったという」といった意味の言葉が刻まれている。
鉄の井
鎌倉十井の一つ。名の由来は、この井戸から鉄製の観音象の頭部が掘り出されたことによるという。この観音像の頭部は、明治六年(1867)までは井戸の後方にある小さな堂に安置されていたが、現在は東京・人形町の大観音寺に本尊として祀られている。この像の頭部は、もともと扇ガ谷・清水寺ヶ谷の新清水寺(しんせいすいじ)の本尊で、正嘉二年(1258年)正月の大火で、新清水寺が焼失。観音像の頭部が落ちて、土に埋まったものだと言われている(『新編相模国風土記稿』)。