鎌倉駅西口から寿福寺前を通り、横須賀線線路に沿って扇ガ谷を歩くと、やがて化粧坂へ向かう道がある。その道を進むと途中、山王ヶ谷との分かれ道に洞窟があるが、これは景清籠である。水鑑(みずかがみ)景清、景清窟と呼ばれる。平景清は、悪七兵衛と呼ばれた平家の侍大将で屋島の戦いなどで活躍した。平家滅亡後、弟忠光は永福寺の建設工事現場で人夫になって視察に訪れた頼朝の暗殺を狙ったが失敗し斬首された。景清も建久六年(1195)に奈良東大寺で頼朝の暗殺を狙ったが失敗し捕らえられ和田義盛に預けられた。これは和田義盛の屋敷から逃げ出さない限り、館内では景清は自由であったため、景清はかなり奔放な振る舞いをしたらしい。和田義盛は手を焼いて、景清を預かる任務を交代してほしいと頼朝に願い出たため景清は八田知家に預けられた。八田の屋敷でも奔放に振舞った景清だが、だんだんと平家の身分でありながら生き残って自由に生活している身を悟ったのか、突然化粧坂中腹の洞窟、つまり現在の景清籠に自分から入り、飲食を受け付けず、読経三昧の日々を送り、ついに自ら命を絶ったという。実際には、この洞窟はやぐらであったらしく、この伝説で景清が閉じこもった洞窟がここなのかはよくわかっていない。なお、景清の死を悲しんだその娘は海蔵寺近くに庵を結び、父の菩提を弔ったという。
景清籠