英勝寺の総門の近くに太田道灌邸旧蹟の碑がたっている。石碑には「この地は武略と文藻を兼ね備え、かたじけなくも『武蔵野は萱原の野と聞きしかとかかる言葉の花もあるかな』と詠んで天皇の御感心にも預かった太田道灌(太田持資)が江戸城を築城する前の邸宅の跡である。寛永11年(1634)に今の英勝寺となった。その創立者である水戸藩の祖(徳川)頼房の准母(養母)英勝尼は道灌の嫡流太田康資の娘であったことにより、晩年将軍の(徳川)家光よりこの地を授かり、ここに住むに至った。(昔、太田道灌が)孤鞍(こあん、単騎の意)、雨の中を進み、茅葺(の家を)訪ね、少女が花一枝を差し出した詩的な逸話※は道灌がこの地にいて壮年の頃のものである」といった意味の言葉が刻まれている。
太田道灌邸旧蹟
太田道灌(1432〜86)は扇谷上杉定正の重臣で、名は資長(すけなが)という。江戸城や河越城、岩槻城の築城し、享徳の乱や長尾景春の乱をはじめ、数多くの合戦に戦い活躍したが、主君の定正に暗殺された。道灌は歌人としても知られており、歌集「花月百首」がある。
この地は太田道灌の屋敷跡とされ、英勝寺は道灌の子孫で徳川家康の側室であった英勝尼が祖先ゆかりの地に尼寺を建てたものとされている。