バス停「岐れ道」から北側へ小道を頼朝法華堂の方向へ進むと清泉小学校の角に大蔵幕府旧蹟の石碑が立っている。碑には「今から737年の昔、治承4年(1180)、源頼朝は邸宅をこの地に営み、後に覇権を握ると、政治をこの邸中にて行った。いわゆる大蔵幕府がこれである。それ以後、頼家・実朝を経て嘉禄元年(1225)に政子が死ぬと、幕府(の御所)は宇津宮辻に移るまでこの地が幕府の中心であったこと実に四十六年間に及んだ。」といった意味の言葉が刻まれている。


大蔵幕府旧蹟

 治承4年(1180)の10月に鎌倉に入った頼朝は当初は父義朝の旧跡の亀ヶ谷に邸宅を構えようとしたが、土地が狭い上、その地には岡崎義実が義朝の菩提を弔うための草庵を建てていたため、この地、大蔵に邸宅を構えることにした。邸宅は大庭景義を奉行とし、12月12日に完成した。以降の将軍御所は嘉禄元年(1225)に執権北条泰時が御所を宇津宮辻子に移すまで、この大蔵にあったため、この大蔵の御所を「大蔵(大倉)御所」とか「大蔵幕府」と呼ぶ。 建久2年(1191)3月4日に火災に遭い、焼失したが、同年七月には再建されている。しかし、御所も建保元年(1213)五月の和田合戦の際には、和田勢の朝比奈三郎義秀が御所に乱入し、一部が炎上している。嘉禄元年(1225)に新将軍九条頼経のもと、北条泰時の新しい政治が始まると御所も若宮大路に面した宇津宮辻子に移転した。それまで源氏三代の将軍の御所として機能していた。

撮影日:2011年2月10日
鎌倉市雪ノ下3丁目
(鎌倉郡雪下村)


位置

参考文献

稲葉一彦『「鎌倉の碑」めぐり』、表現社、1982年
『かまくら子ども風土記(改訂十版)』、鎌倉市教育委員会、1991年
(ジャパンナレッジ版)『日本歴史地名大系』、平凡社

2011/04/06 UP(暫定、画像のみ)
2011/10/19 UP
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