明王院の山門から金沢街道(県道二〇四号線)に出て金沢方面へ進むと「明石橋」という交差点に出る。この交差点のほど近くの住宅地のなかに大江広元邸址の史跡碑が立っている。碑には「大江氏は代々学問の家として知られていた。かつて(大江)匡房は源義家に兵法を教えた。広元はその匡房のひ孫で頼朝に招かれ、鎌倉に来てからは常に(政治の)中枢にあり、機密な事柄に参画した。幕府の創設の功績は広元の力によるものが大きい。相模の国の毛利庄を賜って子孫は毛利氏を名乗った。しかし、因縁奇しくもこの幕府創業の元勲の七百年後の末裔が、王政復古の主導をした。この地がその毛利氏の始祖、大膳大夫(広元)の邸宅の跡である」といった意味の言葉が刻まれている。


大江広元邸址

 大江広元は「江談抄」で有名な大江匡房の曾孫にあたるが、明法博士の中原広季の養子となったため、もとは中原広元といった。もともとは京都の官僚であったが、元暦元年に頼朝に招かれ、鎌倉に下向し、以後幕府の文官として重用された。初代の公文所・政所別当として、成立期の幕府整備のみならず、源平合戦における朝廷との交渉にも深くかかわった。建保4年(1216)に自ら願い出て大江に復姓し、実朝や北条義時の政治を助けた。晩年の承久の乱では幕府の長老として積極攻撃を主張し、乱後の伊賀氏事件でも存在感を示した。
 ちなみに広元の四男季光は相模国毛利庄(もうりのしょう、現在の厚木市)を領して毛利氏を名乗った。かの有名な中国地方の戦国大名毛利氏の祖先である。

撮影日:2011年2月10日
鎌倉市浄明寺5丁目
(鎌倉郡浄明寺村)


位置

参考文献

稲葉一彦『「鎌倉の碑」めぐり』、表現社、1982年
(ジャパンナレッジ版)『国史大辞典』、吉川弘文館

2011/04/06 UP(暫定、画像のみ)
2011/05/27 UP(正式)
2011/10/21 修正・リンク追加
2017/06/04 CSS改修
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