英勝寺総門前にある横須賀線の踏切(寿福寺踏切)を渡ると、扇谷上杉管領屋敷蹟の石碑が立っている。ここは扇谷上杉家の管領屋敷があったと考えられる場所である。室町幕府が成立すると足利管領の補佐役を代々世襲する家として上杉家が台頭した。
上杉氏はもともとは藤原氏の一流で勧修寺(かじゅうじ)流の出である。重房の時に丹波国何鹿郡上杉荘(京都府綾部市上杉)を拝領し、上杉と名乗った。建長4年(1252)に宗尊親王が関東に下向してくると、それに従って鎌倉に下ったと伝えられる。その後、上杉氏は足利本家と婚姻関係が結ばれるようになり、重房の娘は足利頼氏に嫁いで家時を生み、重房の子頼重の娘清子は家時に嫁いで尊氏・直義の兄弟を生んだ。このようなことから足利氏の外戚として上杉氏は重用された。南北朝の動乱でも上杉氏は足利氏に従って転戦した。
貞治2年(1363)に五歳の足利基氏が鎌倉公方として鎌倉に下ると上杉憲顕は、高師冬(このもろふゆ)とともに基氏の補佐役に任命され、以後上杉家は関東管領として鎌倉公方を補佐職を世襲した。やがて上杉氏の一族はそれぞれ居住地の名をとって山内(やまのうち)、扇谷(おうぎがやつ)、犬懸(いぬかけ)、宅間(たくま)の四家に分かれた。
扇谷上杉管領屋敷蹟
このうち宅間上杉家は早くに滅び、犬懸上杉家が応永23年(1416)の上杉禅秀の乱の乱で滅びると、上杉家は山内、扇谷の二家が有力になる。当初こそは鎌倉公方の補佐役であった関東管領上杉氏も次第に公方と対立することも多くなった。ついに享徳3年(1454)に発生した享徳の乱では、公方の成氏と上杉氏の対立が幕府をも巻き込んだ戦乱となり、関東は以後本格的な内乱期に突入した。
なお、戦国時代も山内・扇谷両上杉氏は関東に勢力を振るっていたが、やがて小田原北条氏に攻められた。両上杉家は北条氏の圧迫を受け、勢力を北へ北へと後退させたが、このうち山内上杉家の上杉憲政は、上野に逃れ、永禄4年(1561)、家臣の長尾景虎に上杉家と関東管領職を譲った。この景虎こそが有名な越後の戦国大名、上杉謙信である。