岐れ道から金沢街道を金沢方面に行き、荏柄天神の参道からほどなく行くと二階堂川の橋が架かっている。これが歌の橋である。橋のたもとには石碑が立っており、「鎌倉十橋(じゅっきょう)の一つであり、建保元年(1213)2月に渋川刑部(ぎょうぶ)六郎兼守が謀反の罪によって誅されようとした時、愁いのあまり和歌十首を詠んで荏柄天神の社頭に奉献したところ、翌朝将軍の実朝が(それを)伝え聞き、感じるところがあって兼守の罪を許したので、その報賽(ほうさい、祈願成就を神仏にお礼すること)としてこのところに橋を作ることによって神徳に感謝したと伝えられ、この名がある」といった意味のことが刻まれている。
歌の橋の碑
建保元年(1213)、泉親衝は源頼家の遺児、千手丸を奉じて、千手丸を将軍にし、執権北条義時を殺そうとした。この事件は、先に露見してしまったが、その結果、鎌倉幕府の有力御家人和田義盛の子、義直、義重と義盛の甥、胤長も加わっていることがわかり、和田の乱の原因となった。この時、渋川刑部兼守(しぶかわぎょうぶかねもり)という男もこの陰謀に参加し、捕らえられた。そして、死刑を言い渡された兼守は悔しさのあまり、和歌十首を詠んで、荏柄天神に奉納した。その後、たまたま荏柄天神に参詣していた工藤祐高がこれを見て、和歌の達人である将軍実朝に見せたところ、実朝はこれを見て感動し、すぐに兼守の処刑を中止させた。兼守は喜び、荏柄天神と実朝に感謝のしるしとして、この橋をかけたことから歌の橋というようになったという。