大御堂橋から左に折れて、直進すると上杉朝宗及氏憲邸跡の鎌倉青年会の碑がたっている。碑には「(上杉)朝宗は足利氏満・満兼に代々仕え、(出家して)入道となり禅助と号した。人々は「犬懸の管領」と言った。その子の氏憲は(朝宗の跡を)継いで(足利)持氏の執事となり、(出家して)入道となり禅秀と号した。しかし、後に持氏と不仲になり、応永23年(1416)に氏憲は持氏の叔父である(足利)満隆らと謀って、満隆を奉じて兵を起こしたが、ついに敗れ翌年正月に一味とともに雪ノ下の鶴岡別当坊において自刃した。ここはその邸宅の跡である」といった意味の言葉が刻まれている。


上杉朝宗及氏憲邸跡の碑

 上杉朝宗(ともむね)は憲藤(のりふじ)の子で鎌倉公方の足利氏満、満兼の二代に渡って執事として仕え、犬懸(いぬかけ)上杉家の祖となった。その子の氏憲も執事となり、出家して禅秀(ぜんしゅう)と名乗った。しかし、主君の足利持氏が執事を上杉憲基に譲るようにしたことから、持氏と対立するようになり、ついに応永23年(1416)に反乱をおこす。当初、禅秀には持氏に不満を抱く足利義嗣、満兼も味方したが、足利義教の京都の幕府は、持氏支援を多くの武将たちに命じたため、たちまち禅秀たちは追い詰められ、禅秀は雪ノ下の鶴岡別当坊で自害した(上杉禅宗の乱)。


撮影日:2011年2月10日
鎌倉市浄明寺2丁目
(鎌倉郡浄明寺村)


位置

参考文献

稲葉一彦『「鎌倉の碑」めぐり』、表現社、1982年
『かまくら子ども風土記(改訂十版)』、鎌倉市教育委員会、1991年
(ジャパンナレッジ版)『日本歴史地名大系』、平凡社
(ジャパンナレッジ版)『国史大辞典』、吉川弘文館

2011/04/05 UP(暫定、画像のみ)
2011/05/27 UP(正式)
2017/05/21 CSS改修
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