江ノ電の稲村ヶ崎駅から海岸へ向かってあるくと稲村ケ崎海岸の前に出る。国道134号線を渡って東側へ進むと鎌倉市の稲村ヶ崎公園があり、このあたりで海に突き出す岬は稲村ヶ崎である。滑川の河口から続く由比ガ浜の海岸線はこの岬で区切れ、ここから西側の海岸は七里ヶ浜である。現在は旧湘南道路の開削で稲村ヶ崎だけが独立した山のようになっているが、かつては北側の霊山山(りょうぜんさん)と尾根続きであった。このため中世は鎌倉の西の境界にあたってと見えて、『吾妻鏡』の元仁元年(1224)十二月二十六日条には鎌倉の疫病を除くため、陰陽道・四角四境祭を行う際、西の境界として稲村が出てくる。この当時の鎌倉と外の境界が稲村ヶ崎であったことがわかる。
鎌倉青年団が建てた石碑があり、次のような意味のことが刻まれている。「今から584年前の昔、元弘3年(1333)5月21日、新田義貞はこの岬をまわって鎌倉に進入しようとして、黄金の刀は海に投げて潮が引くことを海神に祈ったというのはこの場所である」
稲村ヶ崎と石碑
極楽寺坂が開削されるまで西から鎌倉に入るメインルートではあったが、急峻な海沿いの崖を進む難路であったらしい。元弘3年(1333)には新田義貞が鎌倉攻めに入ったが、極楽寺坂の北条勢の防御が強く、大将大館宗氏が討たれるなど、新田勢は苦戦が続いた。そこで新田義貞は自ら稲村ヶ崎に回って、剣を海神に捧げて祈ると、潮が引き、兵士は潮が引いた海を渡って鎌倉に攻め入ったという話が『太平記』に見える。この有名な徒渉伝説の真偽はわからないが、いずれにせよ、かつての稲村ヶ崎は岬を海沿いに進む道であったことがわかる。そして、この稲村ヶ崎の突破が鎌倉攻めの戦局を大きく変えたと言えよう。このこともあって稲村ヶ崎は国の史跡に指定されている。唱歌「鎌倉」の歌い出し「七里ヶ浜の磯伝い 稲村ヶ崎名将が剣投ぜし古戦場」とはこの義貞の徒渉伝説を指している。
公園内には他にロベルト・コッホ博士の記念碑がある。コッホ博士は結核やコレラを発見したドイツの医学者で、北里柴三郎などもコッホの弟子であった。コッホは明治41年(1908)に来日し、極楽寺坂の付近に滞在した。この記念碑はもとは極楽寺坂近くの霊仙山の山頂にあったが、草に覆われ、山に登る人がいなくなったので、昭和58年(1983)に現在地に移された。
ボート遭難の碑
また、稲村ガ崎公園入って、右手に兄弟の銅像がある。これは明治43年(1910)1月23日にカッターに乗った逗子開成中学校(現逗子開成学園)の生徒ら12人が七里ヶ浜沖で遭難し全員が死亡した事故の慰霊碑である。「♪真白き富士の嶺 緑の江の島・・・」の歌い出しで有名な「真白き富士の嶺」は、この事故を歌ったものである。