由比ガ浜を国道134号線沿いに西へ向かうと、稲瀬川の河口付近に稲瀬川の碑が立っている。碑には「『万葉集』に「美奈能瀬河」とあるのはこの川である。治承四年(1180)十月に政子が鎌倉に入ろうとして、日並の都合によって数日の間、この川辺の民家に逗留することがった。頼朝が元暦九年(ママ、正確には元暦元年、1184)に範頼の出陣を見送ったのも、正治元年(正確には文治元年、1185)に義朝の遺骨を出迎えたのも、ともにこの川辺であった。元弘三年、(新田)義貞の当手(この方面)の大将大舘宗氏(おおだてむねうじ)はこのこの川辺で討死したことは有名で、この(川の)細い流れにも物語が少なくないのである」といった意味の言葉が刻まれている。
稲瀬川の碑
稲瀬川は、かつては「水無能瀬川(みなのせがわ)」とも呼ばれたようで、『万葉集』巻十四に「ま愛(がな)しみ さ寝に吾は行く 鎌倉の 水無能瀬川に 潮満つなむか」と歌われている。稲瀬川として出てくるのはだいたい鎌倉時代くらいからで『源平盛衰記』や『吾妻鏡』にその名が見えている。鎌倉に幕府が置かれて初期から中期にかけては稲瀬川は鎌倉の境界としてとらえられていたのか、頼朝が鎌倉入りしたとき、伊豆からやってきた政子は日入りが悪いとして稲瀬川のほとりの民家に泊まった。また文治元年(1185)八月三十日、頼朝が亡父義朝の首を受け取りに馬を進めたのは、ここ稲瀬川のほとりであった。また、新田義貞の鎌倉攻めの折には、浜手の大将大館宗氏は、ここで北条勢に討たれた(十一人塚)。現在の稲瀬川は、大仏裏の大谷戸(長谷大谷戸)に水源を発し、長谷の町を貫流して、鎌倉湾に注ぐ小さな川である。ただ現在は「長谷観音前」の交差点より北は大部分が暗渠になっている。