江ノ電極楽寺駅から線路沿いに向かい、稲村ガ崎よりの二つめの踏切際に阿仏邸旧蹟の史跡碑が立っている。石碑には「阿仏は藤原定家の子、為家の妻にして和歌の師範家である冷泉家の祖である為相の母である。異母兄為氏が為相の和歌所(わかどころ、勅撰和歌集撰集のため特設された役所。)の所領である播磨国細川庄を横領したとき、これを鎌倉の執権時宗に訴え、その裁決を請おうとして、建治3年(1277)に京都を出発して関東に下り、住まいを月影ヶ谷に定めた。それがすなわちこの地である。その折に日記を十六夜日記と言って世に知られている。(所領争いの)係争は長くかかり、弘安4年(1281)についに阿仏尼はこの地において亡くなった」といった意味の言葉が刻まれている。
阿仏邸旧蹟
この奥の谷戸を月影ヶ谷(つきかげがやつ)と言い、ここには阿仏尼の鎌倉での邸宅があったという。阿仏尼は鎌倉中期の女流歌人である。藤原為家の側室である。為家は『新古今和歌集』の撰者の一人で日記『明月記』を書いた藤原定家の子である。為家にはすでに関東御家人の宇都宮頼綱の娘が妻とおり、その間に為氏と為教の二人の子があったが、後に阿仏尼とその間にできた子、為相(ためすけ)を愛したため、為家の死後、この兄弟たちおよび阿仏尼の間には遺領相続問題が発生してしまう。阿仏尼はこの争いを朝廷や幕府に訴えている。この相続訴訟のため鎌倉へ下った際に綴った紀行文として『十六夜日記(いざよいにっき)』がある。
なお、鎌倉の英勝寺から北鎌倉方面へ向かう横須賀線の線路沿いに阿仏尼の墓と伝える層塔が存在する。阿仏尼の墓は京都にあるのでこれは供養塔と思われる。またこの近く浄光明寺の裏山には冷泉為相の墓と伝える宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。阿仏尼、冷泉為相の母子はともに京都、鎌倉どちらで死去したか定かでない。
碑の傍らには、月影の碑というものがあり、「月影能 谷若葉して 道清志」と刻まれている。