甘縄神明宮の参道脇に足(安)達盛長邸跡の碑が立っている。石碑には「盛長は藤九郎と称して、はじめは頼朝が蛭ヶ島にいた時、頼朝のよく力を合わせてその謀を助けた。石橋山の一戦で源家の運命が真っ暗になった時も、盛長は頼朝に従い、小さな船で波をしのいで安房に逃れ、この地に散らばった兵を集め、挽回を講じた。白旗は鎌倉に帰り天下を(頼朝が)風靡する時に及んで(頼朝は)その功績によって(盛長を)大変重く用いた。子どもの弥九郎盛景、孫の秋田城介義景は(この甘縄の)邸宅を継いで、頼朝以来の将軍がしばしば(この甘縄の邸宅に)来臨した。この地はその邸宅の跡である」といった意味の言葉が刻まれている。
足(安)達盛長邸跡
安達盛長は、通称藤九郎(とうくろう)と号し、出自は詳しくはわからないが、早くから頼朝に仕えた。伊豆で頼朝が挙兵した時も味方を集めるため相模各地の武士たちや千葉氏のもとをまわった。このため頼朝の信頼は厚く、鎌倉幕府成立後も重く用いられた。安達氏は盛長のあと、景盛、義景、泰盛と続き、特に景盛以降は北条氏と婚姻関係を結び、三浦氏を滅ぼすなど鎌倉御家人の中でも最有力な立場にあったが、弘安八年(1285)の霜月騒動で泰盛が討たれた後は勢力が衰えた。ただ、生き残った一族は北条高時の時代に復権し、鎌倉幕府の滅亡時に幕府・北条氏と運命をともにしている。
また景盛以来の安達氏は秋田城介(あきたじょうのすけ)を世襲した。秋田城介とは古代における秋田城の司令官であるが、この頃は空職化し武将の名誉称号となっており、安達氏を別に城氏(じょうし)とも称するのはこのためである。なお、碑文は「安達」が「足達」となっている。ちなみに足立氏という一族は存在するが、これは武蔵の武士である。また碑文中の「盛景」は正しくは「景盛」である。