浄妙寺から鎌倉市街地方面へ歩いていくとやがて足利公方邸旧蹟の史跡碑が立っている。碑には「頼朝が(鎌倉幕府を)開府したはじめ頃、足利義兼は住まいをこの地にして以来、百数十年間、その子孫はあいついでこの地に住んだ。尊氏が覇権を握り京都に移った後、義詮は二代将軍となって京都の邸宅を継ぎ、義詮の弟基氏が関東管領となって兵馬の指揮権をこの邸宅で執った。こうしてこれは(基氏の)子孫に伝えられた。子孫は京都にならって「公方」と僭称(せんしょう、勝手に自分の身分を越えた称号を名乗ること)した。享徳4年(1455)に公方成氏は執事の上杉憲忠と不和になったことによって下総古河に移ったことにより、ついにこの地の邸宅は長く廃墟となった」といった意味の言葉が刻まれている。
足利公方邸旧蹟
このあたりの字を御所ノ内(ごしょのうち)といい、付近は公方屋敷(くぼうやしき)の跡とされている。公方とは室町幕府によって鎌倉に置かれた鎌倉府の長、鎌倉公方のことである。鎌倉幕府が崩壊し、幕府が京都に置かれた後も鎌倉は東国の中心として重要な地であることに変わりはなかった。足利尊氏は当初は長男義詮を鎌倉に下して守らせていたが、貞和5年(1349)10月に同じく尊氏の子で義詮の弟、基氏にその職を交代させて以後は鎌倉公方は基氏の系統が代々就任した。基氏はこのときまだ五歳で執事の高師冬(こうのもろふゆ)・上杉憲顕(うえすぎのりあき)が基氏を補佐した。特にこの二人のうち上杉氏はこの鎌倉公方を補佐する関東管領の職を世襲していく家となる。
鎌倉公方はその後、氏満の頃から京都の将軍と対立するようになり、四代目の持氏の時についに幕府と永享の乱で直接対立してしまう。この時、持氏は幕府軍に敗れて鎌倉の永安寺で自害した。持氏のあとはその子、成氏(しげうじ)が鎌倉公方を継いだが、関東管領の山内上杉家との対立もあり、再び幕府と戦い、康正元年(1455)6月に古河に移った(古河公方)。これ以降、鎌倉の地に鎌倉公方は不在となり、関東は本格的な内乱期に突入した。