宝戒寺から小町小路を進み五十メートルほど進んだところを曲がって直進するとやがて滑川(なめりがわ)にかかる東勝寺橋がある。この橋のたもとには青砥藤綱旧蹟の石碑が立っている。碑には「『太平記』によると藤綱は北条時宗・貞時の二代に仕え、引付衆に列した人であるが、ある時、夜になってから出仕する際、誤って銭十文を滑川に落としてしまい、五十文の続松(ついまつ、松明のこと)を買い、水中を照らして銭を探し、ついにこれを探し出した時、人々は「小利大損だ」と嘲り笑ったが、藤綱は「十文は(額としては)小さいけれどもこれを失えば、天下の貨幣を失ってしまう。五十文は私にとっては損であるけれども、他の人々の利益にはなる」ということを教訓として言い聞かせた物語はこのあたりで演じられたものであろうと伝えられている」といった意味のことが書かれている。
青砥藤綱旧蹟の碑
青砥藤綱(あおとふじつな)は鎌倉時代の武士で「青砥左衛門尉」という名で史料に見られるが詳細は不明である。執権の北条時頼に仕えたとされる。藤綱に関する文献として『弘長記』という書物があるが、後世の偽書の可能性がある。この石碑に書かれている話は『太平記』に見えるもので、他にも裁判の公正のため賄賂を受け取らなかった、自らは倹約質素につとめ、執権時頼を諌めた、など逸話が多いが、いずれも後世の創作と考えられている。
この橋のあたりは昔は大きな屋敷があり、付近はうっそうとした雑木林に囲まれていた。また、関東大震災で倒壊した後、移築された英勝寺の山門もこの近くにあった。現在は屋敷は宅地として分譲され、山門も復興工事のため解体の上、英勝寺に移されている。