名越の安国論寺の門前を左に折れると、大町の妙法寺に着く。日蓮宗で、山号は楞厳山(りょうごんさん)。もと京都・本圀寺の末。境内にある苔の石段が美しく、「苔寺」の通称で知られる。もともとこの地は、建長5年(1253)に安房より日蓮が鎌倉にやってきた際、布教と生活の拠点とした松葉ヶ谷の草庵の跡とされており、現在背後の山腹に「御小庵趾」の碑がある。この草庵で日蓮は文永8年(1271)までの18年間を暮らした。この間、日蓮は鎌倉幕府に『立正安国論』を書いて提出し、それが原因となって草庵を焼き打ちされたりしている。この草庵の跡に法華堂が築かれ、やがて本圀寺という寺になった。
本堂と苔の石段
この本圀寺が京都に移転した後、延文2年(1357)に護良親王の遺子である日叡(にちえい)が父の供養のため、この地に寺を再興し、また裏山に父である護良親王の墓を築いたものが妙法寺の起こりであるという。ただし、日蓮の松葉ヶ谷の草庵跡は、他にも周囲にある安国論寺や長勝寺も同様の由来を持ち、江戸時代には妙法寺と長勝寺は草庵の跡をめぐって、当時の江戸幕府に裁定を仰いでいる。
山上の法華堂と護良親王の墓
近世期には、徳川将軍家や水戸徳川家、肥後の細川家などの崇敬を集めた。現在も文政年間に肥後細川家により建立された本堂や、将軍を迎えるための朱塗りの仁王門などに往時の姿を偲ぶことができる。現在の寺観は、総門、本堂、大覚殿、仁王門、山上に法華堂がある。法華堂は文化年間、水戸徳川家による寄進によるものである。法華堂よりさらに山上へ行くと「御小庵趾」や護良親王の墓などがある。